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【エッセイ】哲学ニートのためのねこ気功

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【目次】
訳者によるまえがき 寿限無老師との出会い
一通目の手紙 猫とニート
二通目の手紙 とりあえず社会に適合する必要はない
三通目の手紙 のんびりすること
四通目の手紙 猫が走るとき
五通目の手紙 気功は体内トリップ
六通目の手紙 主客転倒は別世界
七通目の手紙 吾輩はどこにいるか
八通目の手紙 ねこじかんが大前提
九通目の手紙 自分を責めていないか
十通目の手紙 ノーリスクの投資
十一通目の手紙 ねこおもいは考えない
十二通目の手紙 ねこまんまの時間
十三通目の手紙 ねこ気功エンタテイメント
十四通目の手紙 自由と責任はワンセットではない
十五通目の手紙 競争と共生



著:寿限無老師
訳:やぶら好事 (水行末)
     ※やぶら好事は水行末の別名

<訳者によるまえがき>
 私は、十数年にわたって練功(気功の練習)
を続けてきました。気功には静功といって、
瞑想のトレーニングがあります。
 ある日のこと、私が深い静功に打ち込んで
いるとき、突然、頭の中で猫の泣き声が響き
始めました。「ニャ〜ン、ニャ〜ニャ、ニャ
〜ン、ニャ〜ニャニャ〜ン、ニャ〜ニャニャ
〜ン」と、それはそれは妙なる調べでした。
 しばらくの間、その旋律を聞いていると、
不思議なことに、だんだんその「意味」がわ
かってきました。つまり猫の泣き声のような
音が、私に対するメッセージとして理解でき
たのです。
 これは他人に伝えるのはたいへんむずかし
いことですが、猫語が人の言葉に自動翻訳さ
れるような感じだったのです。
 それによると、相手はなんと猫の気功師。
子猫の頃から練功を重ね、今は百歳だか二百
歳という荒唐無稽な話でした。
 ふつうならとても信じられないデタラメな
内容ですが、静功でおだやかな瞑想状態にあ
る私には、不思議なリアリティを感じること
ができました。
 また、猫の気功師の語る内容から察するに、
その実力たるや私などよりはるかに高い境地
に達しており、私の気功修行に対して適確な
アドバイスをくれたのでした。
 次第に、私はこの猫気功師からもっと学び
たいと思うようになりました。深く静功に入
りながら、尋ねたいことを心の中で強く念じ
ると、「ニャニャニャニャーン」と回答が与
えられます。
 「あなたはなんというお名前ですか」と聞
くと「まだ名前はニャい」とのこと。それで
は不便なので、せんえつながら「寿限無(じゅ
げむ)老師」とお呼びすることを提案したと
ころ、「それはニャイスな名前」とご快諾い
ただきました。
 そんなウイットに富んだ会話を重ねるうち、
寿限無老師はニートについてご興味をお持ち
になりました。「ニートは気が足りニャい」
とおっしゃるのです。
 くわしくは本書をお読みいただくとして、
寿限無老師独自の理論で、「ニートの哲学性
を気功で伸ばすべきニャ」ということになり
ました。私も弟子として、師匠のメッセージ
を伝える仕事に取り組むこととなったのです。
 本書は手紙の形式をとっています。それら
は寿限無老師から、私へではなく、直接ニー
トのみなさんへ向けられたものです。私はあ
くまでも翻訳者としてお手伝いさせていただ
きました。
 翻訳の過程で私自身ねこ気功を実践し、気
功能力が大きく伸びたことは思わぬ副産物で
した。哲学ニートのみなさまも、ぜひねこ気
功を練習して、活力にあふれる毎日をお過ご
しください。

やぶら好事(水行末)



■一通目の手紙 2005.7.11 

<猫とニート>
 ニャ〜ン! 吾輩の名は寿限無。じゅげむ、
と読む。子猫の頃から気功の練習を重ねたお
かげで、不老長寿など不思議な能力を身につ
けたスーパーニャンコじゃ。
 吾輩が何歳であるかには諸説ある。百歳と
も二百歳とも言われとる。何しろ練功(気功
を練習すること)ばかりしておったので、歳
など忘れてしまったわい。 
 こないだ路地裏で読んだ新聞に(吾輩は字
も読めるのじゃ)、ニートについての記事を
見つけた。ニートとは、Not in Education,
Employment, or Training の頭文字をとった
もので、「職に就いておらず、学校に在籍せ
ず、職業訓練もしていない若者」をさすらし
い。
 これを読んで「ニャ〜んだ、吾輩のことじゃ
ないか」と思ったものさ。なに? 若者だな
んてあつかましい? ニャははは。そんじょ
そこらの若者より、吾輩のほうがパワフルだ
し、セクシーだぞよ。なんといっても気功パ
ワーは強力じゃからな。ニャゴニャゴ。
 ま、なんにしてもニートとは、猫のような
生活を送る若者のことらしい。のんびり、気
ままに、自由で結構なことじゃないかと思っ
ていたら、そうでもないのだとさ。
 労働政策研究・研修機構副統括研究員の小
杉礼子先生によると、ニートにもいろいろ種
類があるらしい。ひとつは反社会的で享楽的
な「ヤンキー型」。うん、これはちょいと困
るニャあ。
 あと、社会との関係を築けない「ひきこも
り型」。そして就職を前に考え込んでしまう
「立ちすくみ型」、さらにいったんは就職し
たけれど自信を喪失して辞めてしまった「つ
まずき型」など。こういう若者が日本に数十
万人もいて、大きな社会問題になりつつある
んじゃそうな。


<ニートと猫の違い>
 ところで、猫は哲学者だということを知っ
とるかニャ? いつも思索と瞑想にふける。
世俗にまみれた人間には思いもつかぬ深遠な
世界に生きておるのじゃ。  
 ニートにもそういう傾向はある。ヤンキー
型はともかくほかの型のニートは、社会と自
分との関係について、ふつうの人より深く考
え、傷つき、悩んでおる。ヤンキー型も、実
際はそうなのかもしれんし。
 「このままじゃいかんなあ」と思いつつ、
心のどこかで「しかしこの社会に適合すべき
か」ニャんて感じておるに違いないのじゃ、
ニートたちは。
 では、自由を謳歌する猫と社会問題になっ
ているニートとは、どこが違うかわかるか
ニャ? 答えは「エネルギーの差」じゃよ。
気功師の立場なら「気の力の差」といっても
いい。
 猫には生き生きと暮らすだけの十分な気
(生命エネルギー)が流れている。気功の修
行を重ねた吾輩のような猫は、とびきり気の
パワーが強く質もよい。しかしニートの場合、
それがない、あるいはなくなりつつある者が
多いのじゃ。 
 諸君は哲学者といえば「悩む」のが仕事の
ように誤解しとるかもしれんが、それは一部
のヘンクツ者のこと。本物の哲学者は全身が
躍動感にあふれ、呼吸はゆったりと深く、心
は明晰に研ぎすまされておる。気功師とはこ
ういう存在なのじゃよ。
 え? 気功師って哲学者なの? ニャっはっ
は! おまぬけな質問をするんじゃニャい! 
あたりまえじゃないか。気功は天(宇宙)、
地(地球)、人(人間 - 吾輩の場合は猫じゃ
が)が最善の関係を結ぶためのトレーニング
じゃ。つまり理想の生き方を得るためのもの。
これを哲学と呼ばずして、何が哲学じゃ。あ
〜ん?
 ニートの生活は猫のそれと似て見えるが、
その肉体的能力、精神世界の豊かさに大きな
違いがあること、わかったかニャ? 猫の中
でも吾輩のように気功の修練を積んだ者は、
毎日がとびぬけてハッピーなんじゃよ、諸君♪


<ニートは気功をやるべし>
 しかし! 吾輩はニートの「哲学性」を見
抜いておる。正確には、ニートの中には哲学
の資質がある者が多い、といったほうがよい
かニャ。
 何の疑問も持たずに社会へ適合している人
間は、能力が高い場合もあるが、逆に「ニブ
い」だけのこともある。その点ニートは、少
なくとも現代の社会と何らかのすれ違いを経
験しているという意味で「筋がいい」といえ
る。え、なんの「筋」かって? 哲学者つま
り気功師としてのじゃよ。
 ニートに足りないのは良質にして十分な気、
すなわち生命エネルギーだというのが吾輩の
主張じゃ。「気分モヤモヤ」「意欲わかない」
「人とのかかわりがわずらわしい」「知らな
い場所が怖い」などは、あきらかに気の欠乏
症状。
 もしもきみが哲学ニートで、今の状況から
抜け出すパワーがほしいと少しでも考えてい
るなら、吾輩が気功を教えよう。文字通り
「気力」みなぎる身体と心が手に入るのだか
らニャ。



■二通目の手紙 2005.7.18

<とりあえず社会に適合する必要はない>
 吾輩が猫だから言うんじゃないが、きみを
就職させようとか、学校へ行かせようなんて
ことは、まるで考えておらん。こんな社会に
適合することが立派だとはとても思えんから
ニャ(ま、猫の言うことじゃ、許せよ)。
 しかしニートというライフスタイルが、そ
もそも気の欠乏から生じ、それがまた新たな
気の欠乏を生み、さらに周囲の人間の気も奪っ
ておるということは知っておいたほうがよい。
そういう人間が増えると、社会全体の「気場」
が悪くなるのじゃ。
 つまり、社会がよくないからニートが生ま
れ、そのニートがますます社会の気を悪くす
るという悪循環じゃな。これを断ち切るため
には、ニートをこのゆがんだ社会に適合させ
るだけでは不十分なのじゃ。
 どうすればよいか? ひとまず社会のほう
は忘れよう。まず、きみが一人の人間として
パワフルになることじゃ。パワフルといって
も、それは筋力トレーニングでムキムキにな
るとか、ジョギングで心肺機能を鍛えるとか
じゃない。そうではなくて、「自然の法則」
に逆らわないで生きることなんじゃ。


<自然の法則とは>
 法則には大きく二つある。自然の法則と、
社会の法則じゃ。前者を「自然則」、後者を
「社会則」と吾輩は呼んでおる。
 たとえば法律。交通法規を例にとってみよ
うか。日本では「人は右、車は左」と決まっ
ておる。「赤信号は止まれ」とも。これはこ
れでよい。みんながその法規に従うことで、
事故を防ぎ、交通がスムーズに流れるからの
う。しかし、この法規はある社会においてそ
う決めただけであって、自然界の法則とはまっ
たく関係がない。つまり猫には右側通行も赤
信号も関係ニャいのじゃ。
 猫を例に出すのは極端としても、中国やア
メリカでは車は右側を走っておる。つまり
「どっちでもいい」けど「こう決めよう」と
いうことじゃな。こういうのを社会則と呼ぶ
のじゃ。
 一方、物理法則のようなものは、自然則と
言ってよいじゃろう。誰かが決めたのではな
くて、地球上のあるいは宇宙のどこへ行って
も、誰に対してもそのルールが働くというも
のじゃ。
 実際には、自然則と社会則の区別がつきに
くい場合もあるが、それはまた別の機会に扱
おう。ここでは、ニートたるきみが直面して
いる「壁」の多くが、社会則だということを
確認しておきたいのじゃ。
 この社会へ参加すること、つまりこの社会
則に従うことを、きみの中の自然則が拒否し
ておると言えばわかるかニャ。


<自然則と社会則の矛盾>
 社会則は、しばしば自然則と衝突する。た
とえば式典を考えてみよう。卒業式でも成人
式でもなんでもいい。セレモニーというのは、
堅苦しく、退屈で、猫にはつまらんものじゃ。
え、人間にもつまらないって? うむ、そう
じゃろう。
 その「つまらんもの」を飽きることなく、
人間は大事に大事に繰り返しておる。なぜか
というと、それが社会則だからじゃ。法律に
書いてあるわけではないが、儀式をつつがな
く行なえることが社会人としての資格という
わけじゃな。
 しかし、つまらんものはつまらん。そう思
う心が自然則なんじゃ。注意してもらいたい
んじゃが、「つまらん」から「従わなくてよ
い」ということにはならん。それは交通法規
と同じで、社会則には従っておいたほうが社
会全体がスムーズに回るからじゃ。
 ただ、生活の中に式典のようなものが増え
すぎると、ふつうは自然則との矛盾がつらい。
虚しくなるのじゃ。
 社会が成熟するほど、社会則は増えていき、
複雑になる。国の社会則、地域の社会則、会
社の社会則、部署の社会則、性別の社会則、
世代の社会則、仲間の社会則、家族の社会則、
時代の社会則など、目に見えない社会則の網
が、きみを身動きできなくしてしまうのじゃ。


<ニートは自然則を学べ>
 吾輩が思うには、ある意味でニートは優秀
だと言える。それはそういう社会則の牢獄に
いち早く「ノー」をつきつけたという意味で
じゃ。
 しかし! 残念ながらニートは自然則にも
十分通じておらん。自然則をどこかで感じて
いながら、それに沿って生きられないもどか
しさに苦しんでおるのじゃ。
 気功とは自然則をつかみ、それに沿った生
き方をする技術なのじゃ。自然則を味方につ
ければ、生きることは当然ながら楽になる。
川の流れに逆らって泳げばしんどいけれども、
流れに乗ればスイスイじゃろ? それと同じ
ことじゃ。
 練功を繰り返すうちに自然則のことが身体
でわかってくる。すると、きみはどんどんパ
ワフルになる。それはきみが自然に逆らわな
いで生きるため、自然のパワーが後押しして
くれることを意味するのじゃ。
 そうなったらしめたもの。この矛盾に満ち
た社会も、きみ独自のライフスタイルでラク
ラク渡っていけるのじゃわい。
 さあ、いよいよ次の手紙から練功に入ろう
かニャ。




■三通目の手紙 2005.7.25

<のんびりすること>
 気功を学ぶうえでもっとも重要なことを最
初に教えておこう。それは「のんびりするこ
と」じゃ。なに、のんびりならニートの得意
技だって? ニャ〜るほど。たしかにそうか
もしれん。
 しかし、いついかなるときも自由自在に
「のんびり」する、となるとどうじゃ? そ
れは、けっして焦らない、不安にならない、
腹を立てないということじゃぞ。むずかしい
じゃろう?
 実際、どんな状況におかれても心も身体も
深い「のんびり」を実現できるというのは、
とんでもなく困難なのじゃ。そういういわば
達人の境地に迫ろうというのが、気功のトレ
ーニングなんじゃな。
 なに、そんな大変なことなら「おりた」っ
て? なんじゃ、もう脱落かい。まあ、そう
言わずにもう少し付き合え。ニャ〜に、最初
はむずかしいことはない。そもそも気が欠乏
している者たちを相手にしとるんじゃ。高級
なことをやれと言うほうが無理じゃわい。


<ねこじかんを生きる>
 のんびるすることを「ねこじかん」と吾輩
は呼んでおる。猫が哲学者であることは先に
述べた通りじゃ。哲学者はけっして急がない。
時間というものを超越するのが哲学なのじゃ。
 したがってねこじかんを生きることが、気
功を始める大前提となる。わかるかニャ? 
 結局のところ、ねこじかんは気功の出発点
でありゴールでもある。のんびりしなければ
気功は始められないが、練功を積み重ねて最
終的にたどり着くところもまた「のんびり」
ニャんじゃ。
 ま、これについてはおいおい教えるとして、
とりあえず今のきみにできる精一杯の「のん
びり」を確保してほしい。


<力をぬくこと>
 のんびりしながらキバる者はおらんじゃろ
うが、念のために言っておくぞよ。けっして
力んではいかん。ぬけるだけ力をぬくのじゃ。
力みは少なければ少ないほどよい。
 これは立つときも、座るときも、動作をす
るときも、息をするときも、歩くときも、考
えるときも、すべてについて言える。気功と
は「心とからだの脱力」と言い切ってもいい
くらいなのじゃよ。
 さて、気持ちはのんびり、からだはてれーっ
と力をぬいた。その状態でゆっくりと立ち上
がってみよう。なになに、からだが重いって?
そうじゃ! それでよい。
 力をぬいたからだというのは、ボテッとは
れぼったく、ズシリと重いんじゃニャ。猫の
姿をよく見るといい。てれーっと垂れておる
のがわかるじゃろう。あれが理想じゃ。この
てれーっとした立ち方を「ねこだれ」と呼ぶ。
猫のように垂れて立つことじゃ。
 そうやって、ねこだれで立つことができた
ら、自分のからだを味わってみる。驚くかも
しれんが、もうねこ気功は始まっておるのじゃ
ぞよ。
 え、まだ立ってるだけだって? そうじゃ。
こうやってからだの重みを十分に感じる立ち
方(ねこだれ)ができれば、それはもう立派
な気功ニャのじゃ。


<背骨を前後にゆする>
 では、ねこ気功の中心功法に入ろう。うん?
初回からいきなり「中心功法」かって? そ
の通り。ニートはエネルギーが不足しておる
のじゃから、一刻も早くそれを補給してやら
んとな。とは言っても、あくまでも「のんび
り」じゃぞ。の〜んびりニャ。
 では、のんびりと大事なことを教えるので、
力をぬきつつ集中して聞くように。これこれ、
泣き言ばかりほざくでない。力をぬいて集中
するのは矛盾するように感じるかもしれんが、
気功の基本じゃから、少しずつ慣れるように。
 きみは今、のんびり、てれーっと、ねこだ
れで立っている。その「垂れた感じ」をキー
プしつつ、背骨を前後にゆらーり、ゆらりと
ゆらしてみよう。「背骨」といっても最初は
わかりにくいじゃろうから、からだを前後す
るだけでよい。
 急いではいかんぞ。あくまでものんびりと。
力んでもいかん。あくまでてれーっとじゃ。
重要なのは「動き」ではなく、ねこだれのほ
うニャんじゃ。
 ゆっくりと、いたわるように、ゆらーり、
ゆらり背骨を前後にゆらす。このとき自分の
背骨をよく感じてみなさい。それは「一本の
棒」か? それとも「いくつも節のある棒」
のように感じられるか?
 言うまでもなく、背骨はいくつもの小さな
骨の集合体じゃ。前後にゆらせば「棒のよう
に」ではなく、「自転車のチェーンのように」
動く。もちろん、きみはまだこういう動きに
慣れていないから、最初からそのようには動
かニャいじゃろうが。
 しかし練功を重ねるにつれて、背骨はだん
だんしなやかに動き始める。棒からチェーン
に、やがてはムチがしなるようになる。
 この背骨の前後ゆらしが、ねこ気功の中心
功法「ねこばしり」じゃ。
 次回はもっとくわしく説明するぞよ。




■四通目の手紙 2005.8.1

<猫が走るとき>
 きみはテレビでチーターが草原を走る姿を
見たことがあるじゃろう。チーターもトラも
そこらへんの野良猫も、走るときの姿は同じ。
つまり背骨を前後に波打たせながら走るんじゃ
ニャ。
 「前後に」というのは、人間のからだに合
わせた表現。猫の場合、四つ這いで走るので、
実際には「上下に」波打つのじゃが、人間の
ように直立した姿勢で言えば「前後に」とな
る。この猫が走るときの動きをまねるのが、
ねこ気功中心功法のねこばしりなのじゃ。


<背骨の役割>
 人間の背骨は、たくさんの椎骨(ついこつ)
が積み重なってできておる。その内部には脊
髄という神経の束が収まっているので、全身
をコントロールするうえでたいへん重要な器
官なのじゃ。
 よいか、背骨はけっして単なる突っかい棒で
はない。構造的にも機能的にも実に複雑かつ
高度なものニャのじゃぞ。これをまずよーく
理解しておきたまえ。
 ねこ気功は、重要な背骨を徹底的にトレー
ニングする。そうすることによって、きみの
中に眠っている潜在的能力を目覚めさせるの
じゃ。
 しかし、ものごとには順序がある。きのう
までのニート生活で、きみの背骨はあまりよ
い状態にはないはずじゃ。ここをまずなんと
かしニャくてはならんな。


<邪気を払う>
 邪気(じゃき)という言葉を聞いたことが
あるかニャ? 読んで字のごとく「よくない
気」のことじゃ。日常語で言うならコリ、疲
れ、ストレス、痛み、冷え、ほてり、だるさ、
無気力など、不快な症状一般のことだと思え
ばよい。気功ではこれを邪気が溜まったせい
と考える。
 したがって、どこか具合が悪ければまず邪
気を払うことから始めなくてはならニャい。
なんとなくやる気が出ない、ニャんて言うの
も邪気のなせる技じゃ。邪気を取り除くだけ
で気分がずいぶんと変わるものじゃよ。
 では、どうやって邪気を払うのかというと、
きみはもうやり方を知っておる。そう、ねこ
ばしりじゃ。椎骨の間に溜まった邪気をゆっ
た〜りと背骨をゆすりながら、大掃除するの
じゃニャ。
 背骨を構成する椎骨は、首の骨(頚椎)が
七つ、胸の骨(胸椎)が十二個、腰の骨(腰
椎)が五つ、そして骨盤にはまっている仙骨 
とその下にある尾骨からできておる。上は頭
から下はおしりまで、二十六個の骨が連なっ
た「チェーン状の」長いもの、それが背骨な
んじゃ。
 つまり邪気が溜まる場所は、椎骨どうしの
関節だけを考えても二十数カ所ある。椎骨と
そのまわりの筋肉にも邪気は溜まるので、細
かく見れば、その数は無数と言えるんじゃ。
それを一気にクリーニングしようというのが
ねこばしりじゃ。


<やっぱりのんびりと>
 「一気にクリーニング」とは言ったが、や
はりのんび〜りすることが大事じゃ。ゴリゴ
リとモップでこするようなイメージではなく、
遺跡を小さなブラシで掃きながら発掘するみ
たいな感じじゃな。少しずつていねいにさす
るような取り組みが求められるのじゃ。
 気功の面白いところは、力を入れると効果
がないこと。邪気の掃除は力を入れれば入れ
るほど時間がかかり、力をぬくほどにスムー
ズに事が進む。
 では、まず頚椎からやってみよう。頭を前
へ倒して後頭部をさわってごらん。ペコンと
したくぼみがあるじゃろう。その奥のほうに
第一頚椎がある。
 そのまま指でつつつっと下へなぞると、首
の付け根にポコンと飛び出した骨がある。そ
こが第七頚椎じゃ。つまりこの間に七つの骨
があるということじゃな。
 では、第一頚椎からやさしく、やさしく、
の〜んびりと、前後に小さく動かしてごらん。
猫が走るようすを思い浮かべながらやると、
なおよいぞ。
 第一頚椎と第二頚椎の間にたまったススを
ゆすり出すような感じじゃな。「ゆすり出す」
と言うと思わず力が入るので注意。かすかな
刺激を与え続けて、次第にホコリを浮かび上
がらせるようにやるんじゃ。
 少しずつ下へ下へと下り、第二頚椎から第
三、第四 ... そして第七頚椎まで、ゆっくり
とゆらしていく。気分はあくまでものんびり
と、からだはてれーっとねこだれでな。
 やがて頚椎全体がとろーっとねこだれにな
ると理想的じゃ。え、骨が垂れる? そうじゃ
よ。骨も柔らかくなってくると、垂れる感じ
が生まれるんじゃ。
 こうして頚椎をねこばしりで動かしている
うちに、首から肩、肩から腕の筋肉が次第に
ゆるんでくる。首から肩は軽くなり、腕は重
た〜く感じられてくるはずじゃ。
 次回は、胸部のねこばしりをやろう。





■五通目の手紙 2005.8.8

<気功は体内トリップ>
 ねこばしりをやると気付くじゃろう。気功
とは、まるで体内を探検する旅行のようだと。
その通りなんじゃ。頚椎の七つの骨を動かし
てみて、自分の首がこんなに長かったのかと
驚いた人がおるかもしれん。そう、体内には
「訪問」すべき場所がたくさんあるし、その
スペースは広大ニャんじゃよ。
 この旅には金がかからん。なんと言っても
猫である吾輩がしょっちゅう出かけるくらい
じゃからな。ニャはは。そして準備もいらん。
旅行カバンも服もパスポートもチケットもい
らん。「さあ出かけよう」と思いさえすれば
いい。帰ってくるのも一瞬じゃしニャ。
 しかも、体内トリップで得られる体験は深
く豊かじゃ。何度出かけても、飽きるどころ
かますますその魅力にはまってしまう神秘的
快感に満ちておるのじゃ。
 哲学ニートの諸君にも、ぜひこのワクワク
する旅行体験を知ってもらいたいものじゃ。
なあに、吾輩の案内に従ううちに、いつしか
きみも旅の第一歩を踏み出していることに気
付くじゃろうがな。


<胸椎のねこばしり>
 胸椎は胸(背中)の部分の背骨。肋骨がそ
こから生えておるのが胸椎じゃよ。十二個の
椎骨が連なる。ということは肋骨も十二対あ
るわけじゃな。
 十二個の胸椎が動けば、それに合わせて十
二対の肋骨も動く。背骨を動かすことでニャ
んと肋骨が動くのじゃ。面白いじゃろう?
 胸椎は数が多いので、ねこばしりもていね
いにやろう。全体を四分割して、胸椎三つ分
ずつを攻めるのじゃ。
 まず第一〜第三胸椎を前後にゆらす。次に
第四〜第六を、以下第七〜第九、第十〜第十
二とブロックごとに意識を移しながらゆらす
と楽ニャんじゃよ。
 そして頚椎のときと同じように、椎骨と椎
骨の間にこびりついたススを洗い出しながら、
ていねいに邪気を払っていく。


<腰椎、仙骨、尾骨のねこばしり>
 これも頚椎や胸椎と要領は同じ。腰椎は五
つの大きな椎骨が連なっているので、それら
の間を掃除するつもりでゆらそうニャ。
 仙骨というのは骨盤にはまりこんでいる大
きな骨じゃ。背骨全体を下から支えるように
存在しておる。こいつをゆらすのはなかなか
大変じゃが、これもてれーっと力を抜いて、
のんび〜りした気分で前後に動かしてごらん。
 尾骨はおしりのところにある。本物の猫に
なった気分で、しっぽを前後に振るように動
かしてみるとよいんじゃニャ。
 こうして、頚椎七、胸椎十二、腰椎五、仙
骨、尾骨と二十六の骨を順々に「訪問」する
旅をしたわけじゃ。
 気分はどうじゃ? さっぱりしたことと思
う。体内にこんな大きなスペースがあること
を知って、認識が変わったんじゃニャいか? 
大きいだけじゃない。人体とは、構造も複雑
で豊かな世界なんじゃ。
 さあ、これでひと通りきみの背骨をざっと
大掃除したことになる。ここまでにかける時
間は、そうじゃのう十五分くらいか。
 本当はねこばしりだけで一時間ほどやると
目が覚めるような体験となるのじゃが、まあ
それはあとの楽しみにしよう。当面の目標は
「毎日ねこばしり二十分」じゃな。これを繰
り返すことで、きみのからだは確実に変化し
始める。


<背骨を開発する>
 ニート生活で邪気がたまったきみの背骨は、
ねこばしりによってきれいになった。そこで
今度は、背骨をさらにいい状態にしよう。
 せっかく背骨のススを掃除したのだから、
椎骨の間にオイルを塗っておこう。とは言っ
ても、本当に油をさすわけではニャい。「ぬ
るぬるの意識」を使うのじゃ。
 ねこばしりをやりながら、椎骨の間がぬる
ぬるしてくるのを感じる。動きが滑らかにな
ると、本当にぬるぬる感が出てくるのじゃ。
 背骨の一部でいい、少しでもそれを感じた
ら、その感覚を「ぬるぬるの意識」と名付け
て、こいつを背骨全体に塗り広げる。つまり
背骨に塗るオイルとは、この「ぬるぬるの意
識」のことニャんじゃ。
 先に「毎日ねこばしり二十分」と言ったが、
前半の十五分を邪気払い、最後の五分をぬる
ぬる塗りにあてるとよいじゃろう。


<主客転倒の妙>
 さて、ねこばしりは、実はここから面白く
なってくる。はじめはボンヤリしていたぬる
ぬるの意識も、毎日繰り返すことで、だんだ
んはっきりしてくる。すると、背骨はあまり
力を使わなくても、猫のようにしなやかに波
打ち始めるのじゃニャ。
 ねこばしりは、もともとてれーっと力を抜
いてやるべきものじゃが、それがさらに力を
抜くことができるようになる。するといつし
か「私が背骨を動かす」んじゃなくて「背骨
が私を動かす」というように感じられる。主
客が転倒するんじゃ。
 この「主客転倒」を味わったら最後、ねこ
ばしりが面白くて仕方なくなる。
 次回はここから話を始めよう。



■六通目の手紙 2005.8.15

<主客転倒は別世界>
 ねこばしりが上手になってくると、ある段
階で主客転倒という現象が起きる。「私が背
骨を動かす」から「背骨が私を動かす」とい
うことになるのじゃ。
 一度でも主客転倒を経験すると、その不思
議な感覚のとりこになる。毎日の練功が待ち
遠しくなるはずじゃ。
 だから、いったんねこ気功を始めたら、ニャ
んとしてもこの主客転倒までは到達してほし
い。早い人は二週間目くらいから感じること
ができるじゃろう。
 そこは、今までの日常世界からは想像もつ
かない別世界じゃ。ゲームやテーマパークで
遊ぶのも楽しいが、自分の体内にも魔法の国
があることに気付くじゃろう。


<旅を続けよう>
 これまでのところをざっと復習してみよう。
ねこ気功は体内トリップじゃ。その旅はのん
びりとねこじかんを味わうことから始まる。
やがてそれは、てれーっと力をぬくねこだれ
にいたる。
 そして第一頚椎から順に動かしながら、徐々
に背骨の大掃除ツアーとニャる。なにしろ二
十六箇所も訪問しつつ掃除をするのだからた
いへんな仕事じゃ。けれども掃除が進むにつ
れて、からだは軽く、心は晴れ晴れとするの
を感じるじゃろう。
 ひと通り背骨の掃除が終わったら、各椎骨
を再度訪問し、今度はぬるぬるを塗ってまわ
る。これがまた気持ちいい。背骨という大切
な道具を、念入りに手入れするのじゃからな。
 さて、背骨がいい状態になってくると、思
わぬ恩返しを受けることになる。椎骨のひと
つひとつが、きみに「ありがとう」とでも言
うかのように、パワーを発揮し始めるのじゃ。
それが主客転倒という形であらわれる。
 はじめのうち体内トリップは、「きみが椎
骨を」訪問するという、ある意味では重労働
だった。しかし主客転倒してから後の旅は、
「背骨がきみを」あちこちへ連れて行ってく
れる快適なツアーとニャるのじゃ。
 さあ、ねこ気功の旅を続けようか。


<ねこなきをしよう>
 哲学ニートのためのねこ気功では、動きを
ともなう型はねこばしりしかない。気功とい
うと複雑な型をたくさん覚えなきゃならんと
思うかもしれんが、そんなことはニャい。
 経絡(気の通り道)や経穴(いわゆるツボ)
も知らニャくてよい。気とは何かなどと難し
く考える必要もない。そういうものは上級者
になって必要なら勉強すればいいのじゃ。
 しかしねこばしりのほかにも、初心者のう
ちからやっておいたほうがいいことがある。
それは呼吸法じゃ。呼吸は人生(吾輩の場合
は猫生か?)の質を決定すると言ってもよい
くらいの大きなテーマニャんじゃ。
 ねこ気功で学ぶ呼吸法は、これまた一種類
しかニャいから安心したまえ。それには「ね
こなき」という名前がついておる。
 まず「ニャン、ニャン、ニャ〜〜〜〜〜ン」
と鳴いてみよう。なに、はずかしい? 誰も
きみのことなど見とりゃせんわ。一人になれ
る場所を確保して取り組みなさい。
 え? 馬鹿馬鹿しいじゃと? これだから
ニートは困る。いいか、やってもみないでど
うしてわかるのじゃ。ねこ気功では「自然則」
を学ぶと教えたじゃろう? 馬鹿馬鹿しいと
判断するその基準こそ、きみが持てあまして
いる「社会則」そのものなんじゃニャいか?
いいから吾輩と一緒に鳴こう。せ〜の、ニャ
ン、ニャン、ニャ〜〜〜〜〜〜〜ンじゃ。
 最初の二つ(一の鳴き、二の鳴き)は短く、
「三の鳴き」は長く伸ばすのがコツじゃ。ど
れくらい長くかというと、息の続く限り長く
じゃのう。毎日これを繰り返し、長鳴き記録
を更新するのもよいぞ。
 注意するのは、息を吸うときに鼻から吸う
こと。吐くのはもちろん口からじゃ(でなきゃ
鳴けんじゃろ)。鼻から吸うのは自分の好き
なだけスーッと吸いたまえ。

 ニャン、ニャン、ニャ〜〜〜〜ン、スーッ 
 ニャン、ニャン、ニャ〜〜〜〜ン、スーッ
 ニャン、ニャン、ニャ〜〜〜〜ン、スーッ
 ニャン、ニャン、ニャ〜〜〜〜ン、スーッ
 ニャン、ニャン、ニャ〜〜〜〜ン、スーッ

...と、五回鳴いてワンセットじゃ。これを一
日に何セットでもやるといい。当面の目安と
しては、「毎日ねこなき十セット」じゃな。
 慣れてきたらねこばしりをやりながらねこ
なきを重ねることもできる。椎骨ひとつにつ
き一呼吸とすると、かなり回数をかせげる。
 ここで、気をつけなくてはいけないことが
ある。ねこなきは、やり始めると思いのほか
楽しいことに気付くじゃろう。だからついつ
い急いだり、力を入れたりしてしまうのじゃ。
 あくまでもねこじかんでの〜んびりとした
気持ちになり、てれーっと力を抜いきながら
ねこだれでするのが重要。ねこばしりとねこ
なきを同時にやると、特に力が入りやすいの
で要注意じゃよ。



■七通目の手紙 2005.8.22

<吾輩はどこにいるか>
 ここで少し気分を変えて、吾輩の生活や気
功に対する考え方なぞを話そうかニャ。
 いきなりびっくりするようなこと言うが、
吾輩は「精神的存在」なのじゃ。猫としての
肉体もあるにはあるが、それはほとんど使っ
ておらん。とある山奥の森で安らかに眠った
ような姿勢で存在しておるだけなのじゃ。
 一方、精神としての吾輩は、ご覧の通り生
き生きと躍動感に満ちておる。きみの常識で
は理解しにくいじゃろうが、精神的存在とし
ての吾輩には「精神体」とでも呼ぶべきから
だがある。それは吾輩にはリアルに感じられ
るので「見える」と言ってもいいが、おそら
くきみの目には見えんじゃろう。
 こういう「精神体」は、実はきみにもある。
きみの肉体と重なるようにして、きみの精神
体が存在しているのだが、現代人はそれを感
知する能力を失っておるのじゃ。
 感知能力が低いだけでなく、精神体の存在
そのものも希薄な人が多い。特にニートのよ
うに何かをやろうという気力が失せておる者
は、精神体の密度が薄いのじゃな。
 ものすごく大ざっぱに話をすると、精神体
を構成する材料は「気」ということになる。
だから練功を重ねて良質な気を取り入れると、
精神体は濃くたくましくなってくるのじゃ。
 また、気功に熟達するほど心身に対する感
知能力が高まるので、さらに精神体の存在が
クローズアップされてくる。やがて精神体は
肉体以上のリアリティを持ち、そっちが自分
の本当のからだのように思えてくる。
 そうなると、吾輩のように「精神的存在」
として空間的距離の制約を受けずに飛び回る
ことができる。つまり吾輩は森の中におると
も言えるし、「いたるところ」に存在すると
も言える。なに、ちょっと難しいじゃと? 
うん、そうかもしれんな。ま、いずれわかる。


<自然則の世界>
 二通目の手紙で、ニートは自然則を学べと
言ったじゃろう? 肉体という物理的制約が
あるうちは社会則がとても重要な役割を果た
す。しかし精神体が鍛えられ、肉体に対して
優位になってくると、自然則の影響が猛烈に
強くなってくるのじゃ。
 吾輩がニートはある意味で優秀と言ったの
は、社会則への無意識の抵抗が行動に出てい
るから。つまり肉体に対して精神体が反抗し
始めているという意味からニャんじゃ。
 しかしニートが自然則を学ばなかったらど
うなるか。きっと社会の片隅でもがき苦しむ
か、もやもやと不満がくすぶり続ける人生を
送るじゃろう。
 ねこ気功を学ぶとは、自然則に沿った生き
方を身につけることじゃ。ねこ気功の各功法
は、どれをとっても自然の法則に対して自分
を開いていくことを学ぶメソッドなのじゃ。
 ねこじかんとねこだれは自然則に向き合う
ための準備、ねこばしりは自然則に適合する
身体開発、ねこなきは自然則のリズムをつか
む呼吸法じゃ。そして主客転倒は、きみが自
然則の支配する世界に入る準備が整った知ら
せニャんじゃ。


<精神体で行なう気功>
 主客転倒が訪れた後のねこ気功は、少しよ
うすが変わってくる。外から見た動きが減り、
じっとして動かないように見えるのじゃ。一
般に使われる言葉で表現するなら「瞑想」が
近い。気功では静功と言うが、吾輩は「ねこ
おもい」と呼んでおる。
 主客転倒後の練功は、ねこおもいが中心と
なる。身体のトレーニング、呼吸のトレーニ
ングときて、いよいよ心のトレーニングに入
るわけじゃニャ。肉体の操作を離れ、ダイレ
クトに精神体へ働きかけるとも言える。
 具体的なねこおもいの練功方法については
次回に述べるとして、ここまでのトレーニン
グ・メニューをどう時間配分するかについて
アドバイスしておこうかニャ。


■ねこ気功二十分コース
ねこじかんを感じる(三十秒)
ねこだれで立つ(三十秒)
ねこばしり(十四分)
ぬるぬるの意識を塗る(五分)

 主客転倒を感じたらねこなきも加えよう。

■ねこ気功三十分コース
ねこじかんを感じる(一分)
ねこだれで立つ(一分)
ねこばしり(二十分)
ぬるぬるの意識を塗る(五分)
ねこなき(三分)

 さあ、次回はいよいよ「ねこおもい」じゃ。




■八通目の手紙 2005.8.29

<ねこじかんが大前提>
 では、ねこおもいの練習を始めよう。
 のんびりすること。つまり、ねこじかんを
感じることがすべての前提じゃ。そして、か
らだが次第に垂れてくる(ねこだれ)。軽〜
く、動いているのかいないのかわからない程
度にねこばしりをやる。
 聞こえるか聞こえないかの小さな声で「ニャ
ン、ニャン、ニャ〜〜〜〜〜〜〜ン」と長〜
いねこなきを一回。
 主客転倒を感じたら、ゆっくりとねこばし
りが止まる。のんび〜り、てれーっと立つ。
この状態を保ちながら、ドロリと座る。椅子
に腰掛けるのでもいいし、床にあぐらをかく
のでも構わない。
 座法など気にしなくてよい。ただ、のんび
り、てれーっと座る。このとき、自分の呼吸
が寄せては返す波のように感じられたらいい。
ゆったりと、その波に身をまかせることがで
きれば、なおいいぞ。


<いきなり感謝する>
 ここで、いきなり「感謝」する。え、そん
な唐突に? 何に対して? ニャっはっは!
どうじゃ、驚いたか。ここがねこ気功のひと
つのクライマックスでもあるから、よ〜く味
わってほしい。
 その通り、「いきなり」しかも「対象のな
い」感謝をするのじゃ。と言っても、それで
はあまりに難しいだろうから、これまでに感
謝の念を抱いたときのことを思い出してみれ
ばよい。そのときの心情を再現するのじゃ。
 あるいは「ありがとうございます」と口に
出してつぶやいてみる。「ありがとう」とい
う感謝の言葉を発音することで、感謝の気持
ちはぐっと再現しやすくニャるのじゃ。
 きみは条件反射という言葉を知っておるか。
犬にベルを聞かせてから餌をやる習慣をつけ
たところ、やがてベルを聞くだけで犬はヨダ
レを出すようになった、という実験がある。
 つまりベルの音のような本来はヨダレと関
係のない刺激(条件)に対して、からだが反
射してしまう現象じゃ。
 これまでの人生で「ありがとう」と口に出
したとき、きみは多かれ少なかれ「感謝の念」
を感じていたはず。両者はワンセットになっ
て経験されてきたため、「ありがとうと発音
する行為」が条件となり、それに反応して自
動的に「感謝の気持ちがわき上がる」。条件
反射が生じるわけじゃな。


<条件反射の強化>
 いきなり対象のない感謝をする(感謝の念
を再現する)のには意味がある。ひとつは、
自分の心がコントロールできるという事実に
気付くことじゃ。
 喜怒哀楽の感情を起こるがままにしていた
ら、きみはずいぶんと不自由な生活をしなく
てはならん。自分の感情の奴隷となって生き
るニャんて苦しいと思わんか?
 もしもきみがどんなときでも「感謝の念」
を自在に再現できるとしたら、喜怒哀楽とい
う牢獄から逃れたことになる。
 なに、そんなことできっこないじゃと? 
たしかに練習しなければできニャいわな。こ
こに「いきなり」「対象のない」感謝をする
もうひとつの意味がある。
 ふだんからこういうトレーニングを繰り返
していると、必要に応じて、つまり自分に不
都合な感情が心に浮かんだとき、すぐに「感
謝の念」と置き換えられるようになるのじゃ。
 この練習を重ねると「ありがとう」と「感
謝の念」の結びつきがどんどん強化され、条
件反射が起きやすくなる。そうなれば、困難
に直面したときでも、「ありがとう」とつぶ
やきさえすれば気分が快方へ向かうんだニャ。


<気功としてのねこおもい>
 主客転倒が起きているとき、きみの心身は
ふつうの状態ではない。頭で思い描いたこと
に強いリアリティを感じるようになっておる
のじゃ。
 したがって、ねこじかん→ねこだれ→ねこ
ばしり→ねこなきをやって、主客転倒を感じ
つつ「いきなり」「対象のない」感謝をする
と、なんだかわからないけど深〜く感謝した
くなってくる。「感謝の念」が絵空事に思え
ニャいのじゃ。
 こういう状態を経験したらチャンスじゃ。
何度も何度も「ありがとうございます」とつ
ぶやいて、条件付けをさらに強化しておこう。
ここまで来れば、感謝の「対象」などどうで
もよくなっておる。ただひたすらに「ありが
たいニャあ」という気分に満たされる。
 これは錯覚ではニャい。感謝の念は、実は、
気のパワーが形を変えたものなんじゃ。つま
り、気がどんどんきみに流れ込んできている
からこそ、感謝の念がコンコンとわき上がっ
てくる。
 感謝という行為が気を導入するスイッチに
なるのじゃニャ。「いきなり感謝する」こと
で気が注ぎ込まれ、気のパワーでどんどん感
謝の念が強くなる。そしてさらに気が押し寄
せる。そういう素晴らしい循環が起きるのが
ねこ気功ニャんじゃよ。
 哲学ニートのきみに聞きたい。最近、誰か
に感謝したかニャ? 一日のうちでどれくら
いの時間を感謝に費やしている? もしも感
謝する機会が少ないなら、きみは良質な気が
欠乏しているはずじゃよ。



■九通目の手紙 2005.9.5

<自分を責めていないか>
 感謝と正反対の心の使い方が批判じゃ。他
人を批判し、世間を批判し、自分自身を批判
する。実際、人間は批判ばかりやっておるん
じゃニャいか?
 他人の悪口を言って気持ちがよいという成
長段階は誰にでもある。誰かを批判して一時
的にスカッとするということじゃな。
 しかしそうして他者に向けて放った批判は、
時を経て自分に戻ってくることに、やがて気
付くじゃろう。それは、批判した相手から直
接攻撃を受ける場合もあるし、思いがけない
第三者からのこともある。
 さらに微妙なのは、外側からではなく自分
の内から自分自身を責めるという形で戻って
くることがあるのじゃ。そういう場合は、以
前に自分が誰かに与えた批判が戻ってきたと
は気付きにくい。
 形はさまざまじゃが、いずれにしても悪口、
中傷、批判、非難、いじめなどのネガティブ
な思いは、かならず形を変えて自分に返って
くる。よいか「かならず」じゃぞ。
 もしきみに自分を責めるクセがあるなら、
たとえば「ああ私はなんてダメなんだろう」
などと思うことが多いなら、それは過去に誰
かを批判したことが戻ってきたのかもしれん。


<マイナスの条件反射>
 ありがとうと口に出すことが、条件反射で
感謝の念を呼び起こすのと同じで、批判的な
思いは「怒りの感情」を自動的に目覚めさせ
てしまう。これまで両者をワンセットで経験
してきたからじゃ。これをマイナスの条件反
射と言う。
 ここでは過去のことは問うまい。問題はこ
れから先のことじゃ。きみは、まだ誰かの批
判を続けマイナスの条件反射を繰り返すのか。
それともいつも心を感謝で満たすのか、とい
うことをよく考えてみなさい。
 前回の手紙で書いたように、感謝の念を感
じているとき、きみには気のエネルギーがド
クドク流れ込んでおる。幸福感に満たされ、
暖かい気分になれる。
 逆に、何かを批判しているときはどうじゃ?
きみの心は暖かいか? エネルギーが補充さ
れるように感じるか? 幸せか? そうでは
あるまい。胸は冷たく、パワーは抜け、不幸
な気分がおとずれるはずじゃ。批判は自分の
エネルギーを無駄に放出する行為ニャんじゃ。
 言葉に出して責めることだけではない。誰
かのことを心の中で批判するだけも同じこと
が起きる。そしてそれは、自分自身を批判す
るのでも同じニャんじゃよ。自分を責めて気
が奪われ、時を経てその批判が自分に返って
きてさらに怒りが増す。なんとも恐ろしい悪
循環じゃ。


<気を補充する生き方>
 気功で言う「気」は生命エネルギーのこと
じゃ。西洋的に表現すれば「愛」となる。日
本語で愛というと恋愛のイメージが強いが、
この言葉の意味するものはもっと広い。
 地球上のありとあらゆる生命を生み、育て、
活動させている根源的エネルギーが「愛」で
あり「気」なのじゃ。恋愛感情はそれが形を
変えた一形態じゃな。
 だから、気が足りないと人は「批判的な」
思いに支配され、「感謝」のように愛をとも
なう感情を抱けば、気が供給されるわけじゃ。
 ところがトレーニングしていない心という
のは、暴れ馬のように手強くコントロールし
にくいものじゃ。頭では批判してはいけない
とわかっていても、ムラムラと批判的な気持
ちになったりする。気の欠乏状態とはそうい
うもんじゃ。
 ここにねこおもいを練功する意味がある。
主客転倒した深い受動的意識状態で、ありが
とうというキーワードを使って感謝の念をリ
アルに作り出す。すると地球(地)からある
いは宇宙(天)から、つまり「自然」からど
んどん気が送られてくるのを感じるじゃろう。
 これこそ「自然則に沿った」生き方ニャん
じゃ。哲学ニートは、社会則のことはひとま
ずおいて自然則を学ぶべしという吾輩の主張
は、この境地をめざせということじゃ。


<最初は自然則から>
 念のために付け加えるが、社会則を無視し
てよいということではニャいぞ。社会則には
社会則の役割がある。しかしそれは「相対的
な」役割じゃ。複数の人間がうまく関係を築
くための約束事にすぎん。相手が変われば社
会則は変わる。状況が変われば社会則は役に
立たない場合もある。
 それに対して自然則は「絶対的」と言って
よいじゃろう。どんな時代でも、どんな場所
でも、誰に対しても、わけへだてなく同じよ
うに働く。宗教も、人種も、国籍も、性別も、
教育程度も一切関係なく、誰にでも等しく働
くルールを総称して、吾輩は自然則と呼んで
おるのじゃ。
 哲学ニートは自然則を学ぶのに有利なポジ
ションをしめておる。なぜなら社会との接点
が少ないため、社会則のしがらみに制約を受
けにくいからじゃよ。
 ねこばしりで背骨を開発して邪気を払い、
ねこなきで呼吸を深め、ねこおもいで感謝の
念をコントロールすれば、きみは自然則を味
方につける。生命力は内側からわき上がり、
やる気がドクドクとあふれ出す。そうなって
はじめて社会則に目を向ければいいのじゃ。
 ところが世間では順序が逆じゃ。先に社会
則を教えようとする。また自然則を学ぶ機会
自体が少ない。これではうまくいかんよ。
 おっと、「批判」にならんうちに切り上げ
ようかニャ☆




■十通目の手紙 2005.9.12

<ノーリスクの投資>
 他者、社会、そして自分を批判することは、
いわばマイナスの預金を重ねるに等しい。そ
れを続ければ、きみはどんどん「借気(エネ
ルギーの借金)」がかさんでいく。
 一方、感謝は投資じゃ。今の状況がどんな
にみじめでも、その状況に対して感謝する。
そんなことはできないときみは思うかもしれ
んが、勇気を出してそれをあえてやる。事業
に投資するようなもんじゃよ。
 投資とは、儲かるかもしれんし損するかも
しれん事業にお金を投じること。情勢がはっ
きりしない段階で、お金を払うという決断が
迫られる。
 思い通りにならない状況に対して感謝を捧
げるのも、将来への投資だと思えばよい。し
かもこの投資はノーリスクじゃ。きみが失う
ものは何もない。ただ、しばらくの間「あり
がとうございます」と唱え続けるだけじゃ。
 人生には投資が必要な場面がある。今がそ
のときじゃ。哲学ニートのきみは感謝を投資
しなさい。投資し続けなさい。
 繰り返すぞ。きみが感謝することで、きみ
に何も損はない。逆に、感謝の念を抱き続け
ることで、見る見るうちにまわりの状況が変
わり始めるじゃろう。
 きみはこれまで運に恵まれていなかった。
しかし、たった今からそれが変わる。きみが
感謝し始めることで、気(エネルギー)がき
みに向かう準備が整う。あとはどんなときで
も感謝し続けることじゃ。そうすれば雨あら
れのごとくエネルギーが降り注ぎ始める。気
の土砂降りじゃな。
 運は高エネルギーのところへ集まるものな
ので、こうしてきみにも幸運がめぐるように
なるわけじゃ。


<困ったときの呪文>
 そうは言っても、最初の一歩は踏み出しに
くい。投資にはやはり勇気が必要じゃ。また、
きみのネガティブな批判精神は、追い払って
も追い払っても戻ってくる。何かを批判する
という長年の習慣は、そんな簡単に消え去っ
てはくれないものじゃ。
 そこで、吾輩がきみを応援する呪文を授け
よう。自分が誰かを、何かを、あるいは自分
自身を批判しているのに気付いたら、すぐに
この呪文を唱えるのじゃ。

 キミユルシカミホホエム

 わかりやすく書けば「君ゆるし、神ほほえ
む」だニャ。きみが許せば神様が微笑むよ、
というのが表面的な意味じゃ。しかしここに
はさらに深い意味が隠されておる。

「き」 → 気付く
 自分が批判していることに気付く。

「み」 → 見つめる
 そのときの自分の肉体や精神の状態を観察
する。

「ゆるし」 → 許す
 現状を一切変えようとしない。今現在の状
態をそのまま認め、許すこと。つまり、批判
している自分も、とりあえず許すのじゃ。

「か」 → 感謝する
 ありがとうとつぶやく。現状をそのまま認
め、感謝し、お礼を言う。

「み」 → 見送る
 そうしていると肉体や精神の状態が変化し
始める。しかしこの変化を自分から求めては
いけない。ただひたすら「見つめ」「許し」
「感謝し」ている間に、自然と変化が始まる
のを待つ。
 ここで、ねこばしりの主客転倒が役立つ。
「私が変化を起こす」のではなく「変化が私
に訪れる」まで待つのじゃ。
 そして変化を感じたら、感謝の気持ちを感
じつつ、自分の中に生じたネガティブな想念
を見送る。「あっちへ行け」と追い出すので
はなく、「ありがとう」と声をかけながら立
ち去るのを見送りなさい。

「ほほえむ」 → 微笑する
 そしてフッと表情をゆるめ、微笑んでごら
ん。ここでも条件反射じゃ。微笑むときに使
う表情筋の感覚は、心の安らぎとワンセット
で記憶されている。だからたとえ作り笑いで
あっても、微笑んでみせることで安らぎが胸
に条件反射として再現されるのじゃ。


<感謝の前払い>
 都合の悪いできごとが起きたとき、他人の
成功をねたましく感じたとき、悲惨な事件の
報道を見たとき、おいしくない料理を食べた
とき、つまらないジョークを聞いたとき...。
 そんなときに、怒りや非難などネガティブ
な感情が湧いてきても、あわてることはない。
すぐに「キミユルシカミホホエム」と唱えな
さい。
 少し落ち着いてきたら、「気付き、見つめ、
許し、感謝し、見送り、微笑む」とフルバー
ジョンを口にする。そして最後にニッコリと
微笑むのじゃ。
 こうして、きみは今日も「感謝の前払い」
という投資をする。それはのちのち大きな財
産をきみにもたらすばかりか、今日という日
も晴れやかなものにしてくれるじゃろう。
 さあ、次回はねこおもいの仕上げじゃ。



■十一通目の手紙 2005.9.19

<ねこおもいは考えない>
 ねこおもいは、一般に言う瞑想のようなも
のじゃ。ところできみは「思考」と「瞑想」
の違いがわかるかニャ? 
 大ざっぱに言ってしまえば、考えるのが思
考、考えないのが瞑想。主客転倒を思い出し
てごらん。「私が主人」の世界でするのが思
考で、「私というものが主役でなくなる」の
が瞑想じゃよ。
 したがって、ねこおもいとは「考えないこ
と」とも言える。すべての思考をストップす
るのじゃな。少し整理してみよう。

思考:
 肉体で行なう。
 私が背骨を動かす(私が主人)。
 考える。
 社会則優位の世界。

瞑想(ねこおもい):
 精神体で行なう。
 背骨が私を動かす(私は客人)。
 思考をストップする。
 自然則優位の世界。

 気功とは何かと問われれば、究極的にはね
こおもいがすべてニャんじゃ。ねこおもいで
動作し、ねこおもいで呼吸し、ねこおもいに
ふける。つまり精神体で自然則に沿った生き
方をすることじゃ。三通目の手紙で、ねこじ
かんが気功の出発点でありゴールでもあると
言ったのもこの意味だニャ。
 天(宇宙)、地(地球)、猫(きみの場合
は人じゃが)が最善の関係を結ぶためのトレ
ーニングが気功。それは主客転倒を経てねこ
おもいに至る道である。そうして自然則をダ
イレクトに感じるとき、気というエネルギー
が自然からコンコンと供給され、満ち足りた
心身とニャるのじゃ。


<トラブルではなくてドラマ>
 哲学ニートのきみは、日常生活に大小さま
ざまなトラブルを抱えておるじゃろう。しか
し、それらがトラブルであるという認識は、
きみが社会則に照らして判断したもの、つま
り「思考」に基づくものじゃ。
 きみを取り巻く状況がそのままでも、主客
転倒が起きてねこおもいに入ると、不思議な
経験をするじゃろう。今までトラブルにしか
見えなかったできごとが、「ドラマ」のよう
に思えてくる。
 小説でも映画でも構わないが、最初から最
後まで平穏無事な光景を描いたものなど、ま
ずないじゃろう? かならずモメ事が(作家
によって)用意されていて、それに翻弄され
たり解決したりするストーリーになっておる。
 つまりドラマにモメ事やトラブルは必須の
アイテムなのじゃ。人生も同じじゃよ。「私
が」、肉体で、社会則を元に、考えた場合は
トラブルと思えるできごとも、自然則から見
ればドラマのワンシーンにすぎニャいのさ。
そういう淡々とした見方を体験するのがねこ
おもいニャんじゃ。
 まあ、すぐには理解できんじゃろうから、
少したとえ話をしようかニャ。


<不便を楽しむ>
 「がんばります」「がんばってください」
という言葉を頻繁に使う人は多いじゃろう。
何かコメントを言わなければならんときに、
これは便利なフレーズじゃ。よく観察してみ
ると、今の日本人はこの言葉をものすごくよ
く使っておる。
 そこで実験じゃ。これから一年間、けっし
て「がんばる」を口にしないというゲームを
しよう。自分が「がんばります」とも、相手
に「がんばってください」とも言ってはいけ
ないのが、このゲームのルール(もちろん社
会則)じゃ。
 そのように言いたい場面では、別の表現を
考えなくてはならん。やってみればわかるが、
これはけっこうな不便を強いられるものじゃ。
言葉に窮してしまうことが多く、自分がいか
に「がんばる」という言葉に頼っていたか気
付くじゃろう。
 最初のうちはかなりストレスを感じるが、
やがて変化がおとずれる。創造性が目覚める
のじゃ。安易に「がんばる」という言葉を使
うかわりに、自分なりの表現をくふうして話
す習慣がつくと、それまで眠っていた創造性
が発揮される。
 現代人は「便利さ」を絶対の善と考えてお
るようじゃが、そんなことはない。「不便さ」
もまた絶対の悪ではなく、創造性をはぐくむ
道具として使えるのじゃ。
 上達すると、「不便を楽しむ」という心境
にまでいたる。便利さが生きる喜びを奪って
いるという側面に気付くのじゃよ。


<ドラマを楽しむ>
 きみが今日まで「トラブル」と呼んできた
不自由さ、不便さもまた、きみの創造性を磨
き、人生を楽しむきっかけとなりうる。
 問題が生じたときに、そこから逃げたり、
不平不満を爆発させて終わったら、それはい
いドラマにならない。くふうして、乗り越え
ていくところに楽しいドラマが生まれるのじゃ。
 主客転倒、キミユルシカミホホエム、そし
てねこおもいにふけることで、きみの人生は
ドラマチックなものになるのじゃニャ。




■十二通目の手紙 2005.9.26

<ねこまんまの時間>
 気功を学ぶものにとって、何を食べるか、
どのように食べるかというのは大きなテーマ。
しかし、それをこと細かに知識として知るこ
とに、吾輩は賛成しない。人それぞれに体質
も違うし、育ってきた環境も異なる。一概に
「これをこう食べなさい」とは言えニャいか
らじゃ。
 そこで今日は、ねこ気功における食事に対
する考え方、これを吾輩は「ねこまんま」と
呼んでおるが、そいつを説明しようではニャ
いか。


<水を飲もう>
 まずは水じゃ。水分を一日二リットル以上
とろうという説がある。それでも悪くはない
が、もう少し慎重に考えたほうがよいニャ。
 最初に注意したいのは「水分」ではなくて
「水」だということじゃ。水分だと、お茶や
ジュースや牛乳でもよいことになる。お湯や
湯冷ましも水分に含まれる。けれども、吾輩
が薦めたいのは「水」じゃ。一切加熱してい
ない水、つまり生水がよい。
 とは言っても、おいしくて安全な生水をふ
んだんに手に入れるのはなかなか難しい。そ
こは浄水器を使ったり、炭で浄水するのもよ
い。あまりうるさいことは言わんが、たくさ
ん飲むためには、美味かつ安全な生水を確保
するくふうをしよう。
 次に「二リットル以上」というところが要
注意じゃ。気温、湿度、体格、食事内容、生
活習慣などによって、とるべき水の量は大き
く変動する。「二リットル」は一応の目安と
考えて、あとは自分の身体と相談しながら量
を決めればよい。


<水の飲み方>
 いっぺんにゴクゴク飲まんことじゃ。少し
ずつ口にふくんでゆっくり飲む。一回に飲み
こむのは、ほんの一口でよい。それをこまめ
に繰り返すのが理想じゃニャ。
 これにはいろんな理由があるが、一気に水
をがぶ飲みすると体温が奪われる。これは避
けたい。体内環境を急激に変化させないこと
が大切ニャんじゃ。
 ただ、積極的に水を飲んだほうがよい場面
もある。ひとつは練功中、もうひとつは入浴
中じゃ。ねこばしりで背骨を動かすと邪気が
排出される。そういうときは多めに水を飲ん
で体内を浄化したいものじゃ。また湯舟につ
かっているときは発汗で水分が奪われるので、
水を補給するとよい。


<食べ物について>
 猫が肉食なのは知っておるじゃろう? し
かし吾輩は、もうほとんど固形物を食べるこ
とはニャい。精神体が優位になると、気を補
充するだけで生命を維持できる。ただし吾輩
の場合、まだ肉体が残っているので、それを
維持するために必要最小限の食事はするが。
 きみがふつうの日常生活を送っているのな
ら、いきなり特殊な食事に切り替えないほう
がよい。ねこ気功で体質が変わってくると、
次第に自分の身体が求めるものがわかるよう
にニャる。そういう内側からの声を大事にし
なさい。
 ただ、習慣として徐々に減らしたほうがよ
いのは、添加物がたくさん入った加工食品類。
一切食べてはいかんとは言わん。しかし加工
食品には生命力つまり気が満ちておらんので、
気功的にはマイナスニャんじゃ。
 なるべく新鮮な生の食材を使って、おいし
く食べることをめざすのがよい。加工も調理
も最小限にとどめ、食材そのものの味を楽し
む。そういう食事を少しずつ増やしなさい。
なあに、ねこ気功を続けていれば、だんだん
そういうものが食いたくニャるものさ。
 「あれは健康にいい、これは悪い」という
知識は、ほどほどにしたほうがよいぞ。どん
なものでも食べ過ぎれば害になる。ふつうは
健康に悪いとされているものでも、場面次第
では薬になることもあるしニャ。
 大事なのは知識ではなく「身体の感覚」の
ほうじゃ。ここでも主客転倒がポイントニャ
のさ。「私が食事を選ぶ」のではなく、「食
事が私を選ぶ」のじゃ。食事がきみの身体に
伝えるメッセージを感じ取れるように、繊細
な感覚を身につけよう。ねこ気功はそのため
にも役立つのじゃ。


<楽しく食べよう>
 ねこまんまの最重要ポイントは「楽しく食
べる」ことじゃ。食事中に子供をずーっと叱っ
ている親がいるが、ああいうことはやめたほ
うがいい。説教はほかの場面でやり、食事中
はとにかく楽しい雰囲気を作ることじゃ。
 食事のマナーをしつけるのは必要じゃろう
が、叱ってはいかん。食事が楽しいものだと
学ぶことこそ、一生の財産なのだからニャ。
 哲学ニートの中には、食事を楽しいと感じ
ない人もいるじゃろう。それは身体に気(つ
まり生命力)が欠乏している証拠じゃ。身体
に気が満ちてくると、水も食事も全身にしみ
わたるようにうまい。食事をするたびに細胞
が小躍りするのを感じるぞ。
 楽しく食べることを心がけ、食事を楽しめ
る身体を取り戻しなさい。




■十三通目の手紙 2005.10.3

<ねこ気功エンタテイメント>
 吾輩は、気功を神聖視するつもりはニャい。
功法というのはただの道具じゃ。道具は使い
こなしてこそ意味がある。だから、ねこ気功
は多くの人が簡単に取り組めるようにできて
おる。
 気功は「特別なもの」ではニャい。ナベや
洗濯機と同じ日常生活の道具と考えればいい。
映画やサッカー観戦のような娯楽と考えても
いい。吾輩は「気ンタテイメント」という言
葉さえ発明しておる。ねこ気功を使って、ど
んどんエンタテイメントを開発するべきだと
思うからじゃ。
 なに、それでは商業的になる? ニャはは!
大いに結構じゃニャいか。まじめに営業努力
を重ねて、高い品質のエンタテイメントを生
産・供給する。それをビジネスという社会則
に従って行なう。これは醜いことでも悪いこ
とでもニャいのだぞ。
 よいか、哲学ニートの諸君。ねこ気功で自
然則をしっかり身につけたら、次は社会則を
学びなさい。そして働きなさい。自分が楽し
いと思う仕事に打ち込みなさい。
 吾輩は二通目の手紙で、きみを「就職させ
よう」とか「学校へ行かせよう」とは考えて
いないと言った。その気持ちは今も変わらん。
 しかし、きみは働かなくてはならん。会社
や学校へは行かなくてもいい、自分にできる
ことからコツコツとまじめに取り組むのじゃ。
 ねこおもいでやりたいことを発見し、気の
パワーでそれに打ち込むのじゃ。世間に合わ
せる必要はニャい。社会則よりもまず自然則
に身をまかせる。そのうえで社会則の合間を
ぬうように世の中を渡ればよいのじゃ。


<ねこ気功グッズの開発>
 吾輩はねこ気功の創始者だから、これをエ
ンタテイメント・ビジネスにすることを考え
ておる。「やりたいこと」は、こんなふうな
たわいもない空想から見つけるのじゃ。では、
自由な発想でいくつかプランを描いてみるぞ。
きみの参考にしてくれニャ。
 五通目の手紙で「気功は体内トリップ」と
述べた。それは身体の中に存在する魔法の国
を旅する体験じゃ。
 この「旅」をより快適にするねこ気功グッ
ズを吾輩は開発したい。たとえば、ねこ気功
アイマスク、ねこ気功アロマポット、ねこ気
功ライト、ねこ気功ミネラルウォーター、ね
こ気功マットなどじゃ。練功のときにかける
ねこ気功ミュージックもほしい。トラベル用
には、ねこ気功耳栓があると便利かニャ。


<ねこ気功の館>
 練功者が何人か集まって、ねこ気功パーティ
ーをやるのも楽しいニャ。雰囲気を盛り上げ
るために演出を加えたい。
 ねこじかんを感じやすいよう、オレンジ色
の全体照明をぼんやり灯し、光と音をプログ
ラムしたねこ気功時計を用意する。
 かすかに森の香りのねこ気功線香が漂い、
ゆったりとみんなでねこばしりを繰り返す。
テンポが速くなりすぎないよう、静かに鐘の
音が流れる。こうして主客転倒の世界へと入
るのじゃ。
 美しいグラスに、おいしいねこ気功ウォー
ターを用意しておく。のんびりとねこばしり
をやりながら、こまめに水分を補給する。部
屋の温度はほのかに暖かく、湿度は若干高め
に。温帯雨林のような環境じゃ。
 ねこなきも、みんなで声を合わせてやる。
「ニャンニャンニャ〜〜〜ン」とな。呼吸が
合ってくると、ますます深い主客転倒の世界
に入ることができるぞ。
 そして静かにねこおもいにふける。目を閉
じて、自分の心を観察。キミユルシカミホホ
エムとつぶやき、感謝を捧げる。対象のない
感謝。ただ感謝の念で心を満たすのじゃ。
 そうやって深いねこ気功の世界を味わった
ら、いよいよお待ちかねのねこまんまじゃ。
素材を生かしたシンプルな料理を囲み、みん
なで楽しく食事する。
 こんなパーティーができるようなお店を作
れば、そこが「ねこ気功の館」じゃ。


<夢は広がる>
 ねこ気功エステも楽しいじゃろうニャ。背
骨の開発と呼吸法で新陳代謝を高める。肌を
美しくするために特別の功法を開発してもよ
いニャ。
 ねこ気功ショウはどうじゃ。ねこばしりを
ベースにしたダンスを創作。ダンサーは背骨
で踊るのじゃ。ステージと客席が一体となり、
みんなでねこばしり、そして主客転倒の世界
へトリップする。
 ねこ気功創造性教室もあるぞ。主客転倒し
てねこおもいにふける。それからみんなで自
由に絵を描くのじゃ。生徒が描いた絵を並べ
て、ワイワイとストーリーを作るのも楽しい。
 最終的にはねこ気功ランドのあるリゾート
を作る。中央にはねこ気功の樹がある。これ
は巨大なタワーじゃ。中は歩いて登れるよう
になっていて、ねこ気功をやりながら回遊す
る。てっぺんに出ると「ねこ気功村」を一望
できるわけじゃ。
 どうかな。きみも何か考えてみんか? こ
んな夢を実現するためなら、働くのも悪くな
いじゃろう?




■十四通目の手紙 2005.10.10

<自由と責任はワンセットではない>
 よく「自由にはかならず責任がともなう」
ということを耳にする。今やこの論は常識に
なってしまった感さえある。しかし吾輩は、
これは真の自由について語っていないと主張
する。つねに責任とワンセットの自由など、
本物の自由であるはずがニャいからじゃ。
 自由と責任が議論になる場合、自由を要求
する側もそれを制限する側も、そもそも自由
とは何かがわかっていない。
 吾輩が知っている中で、自由についてもっ
とも正確な発言をしたのは、芸術家の岡本太
郎じゃ。太郎はこのように言った。

 必然に対して、無意味にノンと言う、
 言い得ることが自由なのだ。
 (二玄社『歓喜』より)

 責任とは必然じゃ。しかしそれを必然とし
て受け入れてしまったら、もはや自由はない。
責任という必然をまったく「無意味に」否定
できることが本当の自由ニャんじゃ。
 ただ、何でも自分の思う通りにやりたいと
いうだけなら、それは「身勝手」。責任とい
う必然を押し付けてくる社会にあっという間
に封じ込められてしまう。
 また自然則の側から見ても、「身勝手な」
連中はけっして自由ではない。あちこちで障
害にぶつかって、たちまち「不自由な」状態
に陥るからじゃ。


<自由とは自然則に従うこと>
 真の自由とは、社会則の枠を乗り越えて、
すべてを自然則にまかせきった状態のことな
のじゃ。そこには責任はない。また「私」と
いう概念もない。
 心の中に「私」が存在する以上、かならず
「社会」も存在する。「私が」自由でいたい
と主張すれば、社会が「責任」を押し付ける
チャンスを与えるようなもの。
 しかし「私」を捨てると、まったく違う世
界に入る。そこに社会は存在しない。何の社
会則にもしばられないのじゃ。それこそが真
の自由であり、必然(社会則)に対して無意
味にノンと言える境地である。
 哲学ニートは自由に見える。しかし実態は
そうではあるまい。身のまわりに不自由なこ
とが山のようにあるんじゃニャいか?
 きみは自然則から生まれた。自然則がなけ
れば、きみという存在はなかった。きみが自
然則から生まれた以上、自然則を無視するこ
とは、論理的に不可能じゃ。つまり自然則に
逆らっては絶対に存在できないということ。
だとすれば結論はひとつ。自然則に完全に従
うことが真の自由だということになる。
 自由には責任がともなうという議論は、社
会則の範囲内で行なううちは意味がある。け
れども自然則から見れば、それはごく限定的
な条件下でのみ成立する理屈じゃ。
 自由には「かならず」責任がともなうなど
と言うことは、野球のルールがスポーツ全体
で通用すると主張するようなものじゃ。
 人類は、責任のともなわない自由、つまり
真の自由について学ぶべきときが来ておるの
じゃ。


<私を捨てるとは>
 しかし、どうすれば「私を捨てる」ことが
できるのか? ニャんと! きみはもう経験
済みニャんじゃよ。ねこばしりで「私が背骨
を動かす」から「背骨が私を動かす」へと主
客転倒したじゃろう? あれじゃ。
 自然則に身をまかせ、私を捨てるというの
は、主客転倒の世界に入ることニャんじゃ。
だとすると、「いきなり」「対象のない」感
謝をするねこおもいも、何を狙ったトレーニ
ングかがわかるじゃろう。そう、「私が」あ
れこれ考えるのを停止する練習ニャのさ。
 私を捨てる修行は、宗教の世界では昔から
探究されてきた。「無我」「空」などと呼ば
れるものじゃ。「神のおぼしめしのままに」
などとも表現する。
 しかしこれらの思想では、「私を捨てるこ
と」を遠い目標のように扱うためか、それが
「ものすごく難しいこと」として理解されて
おるようじゃ。
 実際、私を「捨て切ってしまう」ことは命
がけの大事業と言える。しかし「私を捨てる
感覚をつかむ」ことは、今日からでもできる。
ねこじかん、ねこだれ、ねこばしりを三十分
もやっておれば主客転倒が起きるからじゃ。
 さあ、ここまで理解すれば、きみの練功時
間は大幅に増やしてよいじゃろう。

■ねこ気功四十五分コース
ねこじかんを感じる(一分)
ねこだれで立つ(一分)
ねこばしり(三十分)
ねこなき(三分)
ねこおもいにふける(十分)

■ねこ気功六十分コース
ねこじかんを感じる(一分)
ねこだれで立つ(一分)
ねこばしり(四十分)
ねこなき(三分)
ねこおもいにふける(十五分)

 責任なき自由を存分に味わいたまえ。



■十五通目の手紙 2005.10.17

<競争と共生>
 競争を否定して共生を求めようという人々
がいる。いやそうではなくて人間には競争が
必要なんだという主張もある。そんなせめぎ
あいの中で哲学ニートは立ち止まってしまっ
たのじゃニャいか。
 ここではっきりさせておこう。「競争社会
はよくないから共生社会へ移行すべきだ」と
いう主張は、この考え方自体が「競争」の原
理に基づいておるということじゃ。AとBを
比較してどちらかを採用するというのは、ま
さに「競争」そのものだからじゃ。「ナンバ
ーワンかオンリーワンか」というのも同じ。
この問いかけ自体が「ナンバーワン」の発想
ニャんじゃ。
 何が言いたいかというと、「競争」や「ナ
ンバーワン」を否定しているつもりが、その
議論自体が競争原理、ナンバーワン原理の中
で行なわれていることに気付けよということ
じゃ。つまり、それらを否定したい者にとっ
て、状況は圧倒的に不利。相手の土俵で戦っ
ておるからじゃ。
 競争は社会則の中では必要じゃ。必要であ
るがゆえに生まれた。そしてその出所は自然
則。そう、社会則もまた自然則から生まれた
のじゃ(びっくりしたかニャ?)。したがっ
て競争そのものを完全に否定することはでき
ない。
 しかし自然則から見れば、競争はものすご
く小さな役割しか与えられていない。共生を
主張する人たちはそのことを言いたいのじゃ
ろう。だとしたら、共生と競争を対置しては
ならん。
 ではどうすればよいか。きみにはもうわか
るはず。そう、主客転倒じゃ。実体としての
きみは競争を体験しているが、それは「きみ
が」しているのではない。きみの心は自然則
に従っている。ただ肉体だけが競争を演じて
いるのじゃ。
 もう少しわかりやすく表現するなら、競争
はするけれども競争心は持たないということ
になる。これが真の共生じゃ。


<成功者はまず成功する>
 成功という言葉も、ふつうは競争に勝った
者という意味で使われる。そこには敗者とし
ての他者がいる。これが一般的に考えられて
いる、つまり社会則的な視点における「成功」
の構図じゃ。
 ところが自然則に従って生きる者は、全員
が成功者となる。そこに敗者はいない。なぜ
なら自然則はきみを生み出し、社会を生み出
した根源だからじゃ。存在すること自体が成
功なんだニャ。
 きみがここに存在するのは、自然則がそれ
を認めたということにほかならない。つまり
本来きみは成功者として生まれてきた。現在
の状況がどんなに悲惨でも、その悲惨さを体
験することは、自然則の一部なのじゃ。
 この話は難しいので、いずれ機会をあらた
めてくわしく話そう。今は成功のほうに焦点
を合わせるぞ。きみが自分の望む形で成功し
たいなら、その「望む形」を成功と定義する
ことから始めなさい。何が成功かを決めるの
はきみ。つまりゲームのルールを決めるのは
きみニャんじゃよ。
 自然則によって、きみはこのゲームに参加
することを認められている。そしてこのゲー
ムのルールは参加者が決めることになってい
る。きみは自然則にだけ意識を合わせて「自
由に」ルールを決めてよい。自分なりの成功
の定義を設けるのじゃ。
 「成功者はまず成功する」という言葉を吾
輩はきみに贈ろう。ねこおもいで「いきなり」
感謝をしたじゃろう? これはその応用版。
まず「いきなり」成功してしまうのじゃ。自
分が決めた成功を、心の中で達成してしまう。
 ふつうの人にとってこれは簡単ではニャい。
しかしねこ気功の練功を積んだきみにはお手
のものじゃろう。
 成功者はまず成功する。次に感謝する。心
の中で成功を体験したら、そのことに感謝を
捧げよう。これはねこおもいでたっぷり練習
したことだから簡単じゃニャ。もしも否定的
な気持ちになったら、キミユルシカミホホエ
ムという呪文がある。
 感謝の念が心からあふれ出してきたら、そ
れを他者に与えよう。困っている人や苦しん
でいる人を助けよう。ここでは実際に行動を
起こす必要はない。ただ心の中で、余った気
を分け与えるだけでいい。
 災害や犯罪の被害者に対してでもいい。家
族や友人でもいい。哲学ニートのまわりには、
きみのことで心を痛めている人がきっといる
はずじゃ。そういう人へ気を送りなさい。そ
の人たちに「感謝の念」を流し込みなさい。
 こうして「まず成功し」「次に感謝し」、
感謝の念を他者へ送り続けていると、いつし
かきみは成功への階段を登り始めていること
に気が付く。それは社会の言う成功ではなく
「きみが決めた成功」じゃ。そしてその成功
は、もはや実現するよりほかない。
 成功者はまず成功する。次に感謝する。そ
して実現する、というわけじゃ。


<哲学ニートは社会を変える>
 ねこ気功を実践し、哲学ニートが質の高い
エネルギーをたっぷりと得たなら、そしてそ
ういう哲学ニートが増えてきたなら、これま
でにない豊かな社会が生まれるかもしれん。
 スローライフ、LOHAS(Lifestyles Of
Health And Sustainability =健康で持続可
能性なライフスタイル)などが、社会全体で
どんどん実践されるじゃろう。
 「共生」も「オンリーワン」も「自由」も、
その真の意味が理解され、日々の生活に実現
する。そしてまったく新しい社会則が生まれ
るじゃろう。
 すべてはきみにかかっておる。ねこじかん、
ねこだれ、ねこばしり、ねこなき、ねこおも
い、そしてねこまんま。
 ねこ気功を使いこなして、素晴らしい世界
をともに楽しもうではニャいか。待っておる
ぞ。
 では、またニャ。

寿限無


追伸:
きみがねこ気功に上達したあかつきには、対
人関係に役立つ「ねこづきあい」や恋愛のテ
クニック「ねこあそび」についても教えてや
ろう。それまでせいぜい練功に励みたまえ。

 * 哲学ニートのための「ねこ気功」はフィクション
  です。登場する人物は原則として架空のものです
  (労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼
  子先生は実在の人物ですが)。




●気功を始める人のための推薦図書♪

1.「気功革命--癒す力を呼び覚ます」
 盛 鶴延 (著) コスモスライブラリー(刊)
 註)初心者から上級者まで参考になると
   思います。

2.「余分な力」を抜けば、人生が変わる!
 高岡 英夫 (著) 三笠書房(刊)
 註)気功法としては最終章の「宇天気功」
   だけですが、本書全体を大きな意味で
   科学的気功ととらえることができます。

3.気功生活のすすめ
 禅密気功でストレスよ、さようなら
 朱 剛 (著) 清流出版
 註)この功法はすばらしいのですけれども、
   残念ながら書籍ではうまく表現できて
   いません。本気で取り組まれるなら、
   ビデオを購入されたほうがよいと思い
   ます。

4.「阿修羅」の呼吸と身体--身体論の彼方へ
 勇崎 賀雄 (著) 現代書林(刊)
 註)健康法の域を超えてます。「行」として
   取り組む意欲のある方にはたいへん興味
   深いでしょう。

5.呼吸法の極意 ゆっくり吐くこと
 成瀬 雅春 (著) BABジャパン(刊)
 註)ヨーガの呼吸法テキストです。気功として
   とらえても参考になるでしょう。

6.ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門
 ウィリアム・ハート(著) 太田 陽太郎(訳)
 春秋社(刊)
 註)上座部仏教の行法。そのシンプルで
   奥深い瞑想法がヴィパッサナーです。


投稿者 kurosaka : 2007年1月 5日