ワールド・プロジェクト・ジャパン  〜 合奏音楽のための国際教育プロダクション 〜


音楽とインフォームド・コンセント
〜 コンテストの公正性と公開性 〜

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  1999年6月号「バンドジャーナル」に掲載された、
  コンテストの公正性と公開性についての考察。


<カセットテープによるオープンな審査>
審査員は3人。全員が手元に小型のテープレコーダーを
持っている。演奏が始まった。審査員はそれを録音しな
がら、同時に口元で自分のコメントを吹き込む。

「少しテンポが遅れた」、「今のダイナミクスのつけか
たはうまい」、「ここはこんな風歌ったほうがいい」な
どなど、三者三様のコメントが次々と録音されていく。

演奏が終わると、バンドは別室へ移り、審査員の一人か
ら講評と簡単な指導を受ける。3本のテープは、その場で
バンド指導者に手渡される。もちろん審査表も添えて。

これは、1998年2月と3月、アメリカのジャズ・コンテス
トで目にした審査風景である。2月のものはアイダホ州モ
スコウで早稲田大学ハイソサェティ・オーケストラが参
加した「ライオネル・ハンプトン・ジャズ・フェスティ
バル」、3月はカリフォルニア州サンタクルーズで千葉県
富里高校マッド・ハッターズが演奏した「サンタクルー
ズ・ジャズ・フェスティバル」のコンテストである。


  【実例】
   富里高校マッド・ハッターズの演奏と審査。

   審査員Aのコメント 
   審査員Bのコメント
   審査員Cのコメント

   実際にはマッド・ハッターズは4曲演奏しており、
   それぞれの曲に3人の審査員がコメントしている。


カセットテープによる講評は、理屈抜きに感動的だ。自
分たちの演奏に対する感想を、こんなにリアルタイムに、
しかも専門家の肉声で伝えられることの喜び。

客席ではこんな風に聞こえていて、それがこんな風に評
価されるのかということを、演奏直後にフィードバック
されるのは、演奏者としてはたいへん嬉しい。審査員に
よって着目点が違うことも興味深い。


<コンテストはどこまで公正でありうるか>
医療の世界で、「インフォームド・コンセント」が叫ば
れている。患者がどのような治療を受けるのか、医師か
ら十分な説明を受け(インフォームド)、納得したうえ
で(コンセント)治療を受ける、その「説明と合意」の
ことだ。アメリカのコンテストを見ていて思い出したの
は、最近よく耳にするこの医療用語だった。

考えてみると、日本のコンテストは、ジャンルを問わず
ひと昔前の医療現場と似た状況にあるのかもしれない。
医学のことは専門家である医師に任せておくべきだとい
う了解が、医者と患者の間で、つまり審査員と参加者の
間で暗黙のうちになされているようだ。では、この状況
にみんなが満足しているのかというと、そうでもないら
しい。

たとえば吹奏楽関係者と話してみると、多かれ少なかれ、
きっとコンクールに対する批判あるいは改革案が話題に
のぼるだろう。あたかも医師の診断を疑う患者のように。

いかなるコンテストにおいても、主催者が「公正」であ
ろうとしていることは疑うべくもない。しかし、どんな
に厳しく公正性を求めても、音楽は聴く者の主観で評価
が大きく分かれる。

審査員の数を増やし、最高点と最低点をカットし、審査
員の主観を「薄める」ことで公正さに迫ることはできる
けれども、それでも評価には大きな「幅」が残りうる。
だから、参加者の間で慢性的なコンテスト批判がくすぶ
り続けるのかもしれない。

アメリカのコンテストからうかがえるのは、公正性より
も「公開性」を重視する姿勢である。そもそも評価は公
正ではありえないのだから、せめてできるだけ公開しよ
うという、いわば「コンテスト性悪説」に立ったやり方
である。

これは、医師といえども人の子であり過ちを犯す可能性
がある、だから医療情報をオープンにしておこうという
インフォームド・コンセントの考え方と似ている。人間
は過ちを犯しうる存在であるという、謙虚な人間観がこ
こには感じられる。


<能登ジャズ・ウォーズの実験>
1991年から1994年の4年間、石川県七尾市和倉温泉で、
私は「能登ジャズ・ウォーズ」という社会人ビッグバン
ドを対象にしたコンテストをプロデュースしたことがあ
る。ここで私はある実験を行った。

まず、事前に、全参加者に対して審査基準を公開した。
何をどのような点数配分で審査するかを、こと細かに説
明したのである。これによって参加者は、自分たちが何
をどのように審査されるのか、あらかじめ知ることがで
きる。

次に、賞の設定に工夫を加えた。「最優秀トロンボーン
セクション賞」、「最優秀選曲賞」、「最優秀舞台構成
賞」など、小さな賞をたくさん用意した。演奏をできる
だけ多面的に評価しようと試みたのである。

これによって、参加バンドは、いわゆる「コンクール受
け」を狙わなくても、つまり自分たちの個性を殺さなく
ても、入賞する可能性が出てくる。当然、複数の賞を獲
得するバンドもあった。

最後に、全審査員(日米のジャズアーティスト7名)の
採点とコメントが書き込まれた審査表を、そのまま各バ
ンドに手渡した。参加者にとってこの審査表が、自分た
ちの演奏を客観的に見る基礎資料となるのはいうまでも
ないが、加えて、リッチー・コール(as)、北村英治
(cl)など有名プレイヤーの書いてくれたコメントが、
一生の宝にもなるだろう。

「能登ジャズ・ウォーズ」では、何を実験したのか。そ
れは、日本型の「賞志向」コンテストから、アメリカ型
の「学習志向」コンテストへの移行の試みだった。

日本では、コンテストにおいて賞を取ることがきわめて
大きな意味を持つ。コンテストは「達成する」ものであ
る。一方アメリカで感じるのは、それが「学ぶ」ための
場であるということ。参加することで腕を磨く、といっ
た感じである。

たとえていえば、日本は「資格試験」、アメリカは「模
擬試験」の役割をコンテストに求めているようだ。「能
登ジャズ・ウォーズ」においては、コンテストを単なる
賞取りレースにするのではなく、自己練磨の場とできる
ような運営を試みたわけだが、日本でもアメリカ型のコ
ンテストが成立しうるし、それが求められているという
感触を得た。


<情報公開のメリット>
誤解のないように付け加えるが、私は「賞志向」の日本
型コンテストに存在意義がないと主張するものではない。
ただ、それとは別系統の、もっと小規模で、オープンな
ものも必要なのではないかと考えるのである。

コンテストを切磋琢磨の場と明確に位置付けるなら、審
査の結果はもちろん、その過程も、さらには事前準備、
たとえば審査員の選考基準、審査表の作成意図、コンテ
ストの運営哲学にいたるまで、すべて公開されることが
望ましい。

演奏の、何が、どのような視点および配分で評価される
ことになっているか、そしてそれを、どの審査員が、ど
のように評価したか、可能な限り具体的に明らかにする
のである。

では、このようにコンテストが開かれたものになると、
どんなメリットがあるのか。まず第一に、コンテスト自
体が個性化、多様化するだろう。審査基準をオープンに
することで、コンテストは自らの存在意義をアピールす
ることができる。たとえば「楽器の操作能力を厳密に評
価するコンテスト」、「観客へのインパクトを競い合う
コンテスト」など、特徴のある様々なコンテストが登場
するだろう。

そして第二に、楽団は自分たちのもっとも勉強になりそ
うなコンテストを選んで参加するようになる。どんな審
査システムを持ち、誰が審査するかを知って納得した上
で、自分に合ったコンテストを選択する。これは、コン
テストもまた参加者から「審査」されることを意味する。

第三に、楽団は複数のコンテストに参加して、より多角
的、立体的に自己評価をすることができる。こちらのコ
ンテストではこう評価され、あちらでは別の評価を受け
た、なるほどこういう音楽的バックグラウンドを持つ審
査員はこんな聞き方をするのか・・・・などという高度
な分析も可能になる。

第四に、各楽団は自分なりのテーマを持って個性豊かな
演奏をすることができる。というか、そうでなければ高
い評価を得ることができない。したがって、他者との競
争ではなく、自分の力を出しきることに価値を置く楽団
が増えるだろう。これは日本の音楽にとって健全なこと
と考える。

それゆえ第五に、参加者はいたずらに結果にこだわる必
要がなくなる。金賞を取れば一流バンドで銀なら二流、
のようなレッテルを貼る行為は、何の意味も持たなくな
るだろう。

第六に、審査員はもっと自由でクリエイティブな役割と
なる。審査は序列をつけるためのものではなく、各バン
ドの改善すべき点を発見し適切な処方を施す、まさに医
療行為に似たものとなるだろう。そこではミスばかり指
摘するような減点主義ではなく、各楽団の長所を伸ばす
加点主義が歓迎される。

第七に、これらの結果として、日本の音楽界は、今より
もっとバラエティに富んだ世界となるだろう。こぢんま
りと体裁を整えた演奏よりも、自分たちならではの演奏
をしようという意欲が高まり、続々とユニークな楽団が
生まれるだろう。


<公開性は時代の要請>
中世キリスト教の支配を打ち破り、ルネサンスによって
人類は人間性を取り戻した。そして、今また歴史は既存
の権威に対する人間復興を求めて動き始めた。医療、行
政、教育、金融など、さまざまな分野で情報公開が求め
られているのは、そのあらわれだろう。芸術の世界も例
外ではあるまい。

むしろ、人間性の発露たるアートの分野においてこそ、
まっさきに「ルネサンス」が花開くのではないか。次世
代のコンテスト、コンクールは、情報公開という時代の
要請にこたえるべく、オープンな審査システムを構築す
ることが求められるに違いない。

ワールド・プロジェクト・ジャパン 黒坂洋介

投稿者 kurosaka : 2004年3月15日