岡本太郎と臨済 〜 アートとはなにか 〜
作品に近づくほど芸術から遠ざかる、という考え方
を紹介。砂曼陀羅放流の謎をきっかけにして、岡本
太郎、臨済、およびモダンアートの思想をひもとき、
アートの本質について考察する。2001.5.17
※写真はイメージです。 photo by My Story Lives
<砂曼陀羅の放流>
チベット密教の修行僧が、極彩色の砂で曼陀羅を描く。
完成までに数十日を費やす場合もあるという。
1995年に東京・神宮前のワタリウム美術館で、「こころ・
医・チベット展」が開かれた。見学に行った知人による
と、その催し物のひとつとして、ナムギャル僧院の僧侶
たちが砂曼陀羅の制作を実演したそうだ。
砂曼陀羅は壮大にして精緻な美術品であり、見る者に無
条件の感動を与えずにはおかない。しかし、何日もかけ
て仕上げた絢爛たる砂曼陀羅は、完成すると放流される。
ワタリウム美術館の場合も、3月28日に制作が開始され、
5月7日の夜に海へ流した。大きな労力をかけて作り上げ
たものを、完成とともに水に流してしまうのは、いった
いなぜだろう。
それを考えるヒントが、岡本太郎と臨済の中にある。
<岡本太郎という巨人>
1970年大阪万博テーマ館「太陽の塔」の作者、これが一
般によく知られている岡本太郎のプロフィールだろう。
「芸術は爆発だ」と目玉をひんむくテレビ・コマーシャ
ルや、近鉄バッファローズのロゴマークなどでもお馴染
みである。
しかし、太郎の絵画、彫刻、写真、書、著作など、膨大
な創作活動の全体を知る人は、多くないかもしれない。
川崎市生田緑地にある「岡本太郎美術館」、東京南青山
の「岡本太郎記念館」を訪れると、太郎の創作にかけた
凄まじいエネルギーの一端にふれることができる。
著書もかなり再版されている。「今日の芸術」「呪術誕
生」など、今読んでも、というより、今読んでこそ、我
々の生活に強烈なインパクトを与える名著である。
<法隆寺は焼けてけっこう>
太郎の有名な言葉がある。
「法隆寺は焼けてけっこう。
自分が法隆寺になればよいのです」
芸術家にとって、言葉の厳密な意味における「芸術作品」
など存在しないというのが太郎の哲学。したがって「作
品」たる法隆寺には、本質的な価値はないというのだ。
「作品は芸術ではない」
「モナ・リザもインク瓶や吸殻入れと何ら差別の
ない客体であると断言する。問題となるのは作
家の意志であり、そのドラマである」
「芸術作品も芸術家もないという場にこそ、はじ
めて芸術創造が可能なのである」
画家は絵を大事にしすぎるとまで言って嘆く太郎にとっ
て、完成した作品は「芸術の残りカス」のようなもの
だった。
それよりも、創造する過程そのものこそ芸術だというの
が、太郎の一貫した姿勢である。
<臨済録に書かれていること>
「臨済録」は、禅宗の一派・臨済宗の開祖である臨済の
言行を記録したもの。その現代語訳を読んで驚いた。ま
るで太郎が書いているかと思うほど、語り口が似ている
のだ。
「一般の修行者たちは五台山に文殊がいると考え
るが、とんだ間違いだ。五台山に文殊はいない」
「お前たちが朝から晩までの日常生活において、
行住坐臥、いつも自己一枚であればそれが活き
た文殊である」
「世間では仏道は修行して悟るものだと言うが、
誤ってはいけない。もし修行して得たものが
あったら、それこそ迷いの上塗り、生死流転
の業である」
両者に共通するのは、「形あるもの」を徹底的に否定す
ること。「形」に執着することを、二人ともこっぴどく
こき下ろす。そして、「形」を捨て、そこから自己を解
放する過程にこそ芸術や仏道を見い出す。
<アーティストとディレッタント>
ディレッタント(dilettante)という言葉がある。「芸
術愛好家」「芸術主義者」などと訳される。「好事家」
「しろうと芸術家」など、やや否定的なニュアンスで用
いられることもある。
太郎や臨済の視点に立てば、アーティストは「芸術」を
愛し、ディレッタントは「作品」を愛する、ということ
になろうか。
たしかに、芸術そのものではなくて、芸術の「周辺情報」
を愛でる者が多いのは事実のようだ。音楽においても、
歴史、理論、技術など、専門知識でよしあしを判断する
ことが常識的かもしれない。
けれども、芸術の本質はそんなところにはないと、太郎
や臨済は喝破する。周辺情報どころか、作品そのものに
さえ価値を認めないというのだから。
この論でいけば、世間のアーティストは、大半が、実は
ディレッタントだった、ということになる。戦慄すべき
厳しさではないか。
<アートに専門知識は必要か>
絵を描く技術、音楽を作ったり奏でる知識、そういう職
業的専門性が芸術の本質ではないとする考え方は、太郎
や臨済を持ち出すまでもなく、モダンアートの世界では
珍しいものではない。
いわゆるアヴァンギャルド、前衛芸術が誕生した背景に
は、技術や形式という「約束事」への根本的な懐疑があ
る。専門知識という仲間うちの決め事によって芸術を評
価するのはよくないのではないか、芸術の価値とはもっ
と超社会的なものではないだろうか、という主張である。
考えてみれば、上手に描く、作る、奏でる、というのは、
世間あるいは専門家の決めた基準を満たすことである。
そういう、いわば「裏事情」は、本来の芸術とは区別し
ておくべきかもしれない。
アートとは、きわめて個人的な体験である。と同時にど
こまでも普遍的な現象でもある。生命力の奔流を表出す
るプロセス、それが芸術衝動であり創造行為である。子
供が自由に歌い、絵を描き、飛び跳ねる姿に、上手下手
を越えた感動が伴うのはそれゆえであろう。
<アーティストであること>
では、専門知識を持たない大衆がアートの本質に迫って
いるかといえば、答えは否である。彼らが拠り所にする
のは、評判、流行、市場価値、気分などであって、概し
てアートそれ自体ではない。大衆もまた、専門家と同じ
く、作品やその周辺情報と戯れているにすぎないのだ。
大衆はなかなか自分の目で絵を見ない。自分の耳で音楽
を聞かない。「誰か」の目と耳を借りて、アートと接す
るように条件づけられている。そういう「条件づけ」の
一切を取り払ったらどうなるか。
もし、人が、何ものにもとらわれず、本気で、真正面か
らアートと接したならば、それはもはや鑑賞ではなく、
創造行為である。鑑賞即創造、すなわち「アーティスト
として作品に向き合う」ことになる。
そのとき、見ること自体がアートであり、聞くこともま
たアートである。「作品」に価値を感じるのではなく、
その作品によって喚起される内的衝動に感動を覚える。
これこそがアートの本質たる、生命力の奔流であろう。
したがって、アーティストとは修練した末に到達する境
地ではなく、今、この瞬間に、自分がアーティストであ
ると自覚する者のことをそう呼ぶのだと定義したい。
これで、「いつも自己一枚であればそれが活きた文殊で
ある」という臨済の言葉にも合点がいく。
<作品に近づくほど芸術から遠ざかる>
砂曼陀羅を創造し破壊するプロセスは、まさにアートで
あり、文殊の智恵といえる。修行僧が「内なる曼陀羅」
を砂に託して表出する。そして、創造行為が終わったら、
そこに描かれた砂曼陀羅は、もはや「用済み」なのだ。
砂を流すことによって、僧は、自らが「作品」にではな
く「芸術」に、すなわち「砂曼陀羅」ではなく「仏道」
に心身を捧げたことの確認をする。ここでは創造と破壊
は等価である。むしろ、完成した砂曼陀羅に執着するこ
とは、仏道の放棄を意味するのだ。
チベット密教が、本当にこういう意図で儀式を行ってい
るかどうかはわからない。しかし、大切なのは、彼らが
どう考えるかではなく、我々がそこから何を見つけだす
かであろう。
「作品に近づくほど芸術から遠ざかる」。砂曼陀羅から
得られる教訓は、すべてのアーティストに対する戒めと
なる。同時に、すべての人類が、この瞬間に、アーティ
ストたりうるという、それは希望でもある。
黒坂洋介
※岡本太郎の言葉は『日本の伝統』から、
臨済の言葉は朝比奈宗源訳『臨済録』から引用した。