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【エッセイ】寿限無老師の愛論

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【寿限無老師の愛論 目次】
第一回 愛は仕事をする
第二回 愛はどこで交換されるか
第三回 愛交換のシステム
第四回 愛を与えると人は輝く
第五回 愛を奪うとどうなるか
第六回 愛を与え合う
第七回 愛を奪うのが「批判」
第八回 愛は思うだけで交換される
第九回 愛は「絶対善」正義は「相対善」
第十回 愛は自分のために注ぐ
第十一回 愛せないか愛されないか
第十二回(最終回) 愛はストレートに


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黒坂洋介 (著)
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2005.11.24
寿限無老師の愛論 第一回
愛は仕事をする


<寿限無老師ふたたび>
ニャ〜ん! 吾輩は寿限無じゃ。ニャに? 
吾輩のことを知らんとな? そういう人は、
まずここをお読み。

哲学ニートのためのねこ気功

今回は気功の説明ではなく、「愛」について
語るぞよ。猫が愛を説くとは、愉快じゃニャ
いか。ニャはは☆


<愛の定義>
ところで、愛について語るとき、最初に「愛
とは何か」を厳密に定義しようとすると、あ
とを続けにくい。愛の定義だけで議論百出し
てしまうからじゃ。

そこで、吾輩は「仮説」を提示しながら論を
進めることにする。証明はできないけれども、
こういう仮説が成立するなら、こう考えられ
るんじゃニャいか、というふうな展開じゃ。

もちろん、仮説の上に仮説を積み上げていく
場面も多々あるので、論というよりはフィク
ションに近いかもしれんがニャ。ま、はじめ
からそういうつもりで、気軽に読んでもらえ
れば結構じゃ。


<愛と気>
ご存知の通り(ご存知じゃニャい人はねこ気
功を読んでほしいニャ)、吾輩は気功師であ
る。気はある種のエネルギーじゃ。吾輩の解
釈では、人間が「愛」と呼んでいるものも、
突き詰めれば「気」と同じだと考えておる。

したがって、愛もまたある種のエネルギーで
ある。これが第一の仮説じゃニャ。

 【仮説1】
 愛はエネルギーである。

ふつう、愛は「感情」だと考えられておる。
しかし吾輩の仮説では、愛はもっと物質に近
い。ただの精神状態ではなく、具体的な仕事
をする「エネルギー」が愛ニャんじゃ。

もう少していねいに説明すると、誰かのこと
を好きだと思う感情が生まれたら、それはた
だの「思考」「空想」「イメージ」にとどま
ることなく、エネルギーとして仕事を始める
ということじゃニャ。

つづく。



2005.11.25
寿限無老師の愛論 第二回
愛はどこで交換されるか


<愛は交換できる>
愛がエネルギーなら、それは交換できる。日
常会話でも「愛を注ぐ」とか「愛を求める」
などの表現があるように、それが交換できる
ことは広く了解されているようじゃ。

 【仮説2】
 愛は交換できる。

誰かを「愛する」という行為は、相手に対し
て愛(というエネルギー)を与える行為だと
言えるんじゃニャ。


<愛は自然とも交換できる>
人間同士だけでなく、動物とも愛は交換でき
る。人と物との間でも交換できる。「このカ
バンには愛着を感じる」というのも、ある種
のエネルギー交換が生じている結果なのじゃ。

また、愛は人間と「自然」との間でも交換さ
れる。というよりも、自然界は壮大なエネル
ギー交換の「場」であり、人間もそのシステ
ムの一部としてエネルギー交換に参加してい
るのじゃニャ。

 【仮説3】
 愛は人と自然の間でも交換される。

したがって、人間同士が好きだ嫌いだといっ
て愛を与えたり奪ったりしているのは、自然
界全体から見れば、ごく小さな取引にすぎな
いともいえるんじゃ。


<自動的に起きる愛の交換>
さて、ここから大事な話になってくるぞよ。
まずは、びっくりするような仮説を掲げてみ
せよう。

 【仮説4】
 人と人が愛を交換すると、自動的に人と
 自然の間でも愛の交換が起きる。

一回読んだだけでは、意味がわからんじゃろ
う? そのあたりを、次回に詳しく説明する
ので、楽しみに待ってほしいニャ。

つづく。


2005.11.26
寿限無老師の愛論 第三回
愛交換のシステム


<エネルギー交換の仕組み>
愛は当事者同士の間でだけ交換されていると
いうのが、ふつうの人が考える構図ではない
かニャ? 

たとえばAさんがBさんを愛する場合、「Aさ
んが自分の愛をBさんに与えている」という
ふうに。

たしかに、そういう愛の交換は起きていると
考えられる。こういう「人と人との交換」を、
Man and Man を省略して「MM交換」と呼ぼう。

しかし、AさんがBさんに愛を与えてしまった
ら、Aさんはその分だけエネルギー不足の状
態になる。そこでAさんへは自然界から自動
的に愛が流れ込む。これを Nature and Man
の頭文字をとって「NM交換」と呼ぶ。

そこで仮説4は以下のように書き換えられる。

 【仮説4】
 愛のMM交換が起きると、自動的にNM交換が
 起きる。


<純度の違い>
MMとNMを比較すると、そこで交換されるエネ
ルギーは質が異なる。これを詳しく説明する
と長くなるので割愛するが、大ざっぱな話を
すれば、NMで交換される愛は、MMに比べてエ
ネルギーとしての純度が高いんじゃニャ。

 【仮説5】
 NM交換の愛はMM交換よりも純度が高い。

エネルギーの純度が高いということは、それ
を使ってできる仕事量も、NMで交換される愛
のほうが大きいということになる。

わかりやすく言おう。AさんがBさんに愛を与
える(MM交換)と、Aさんには自然界から自動
的にエネルギーが流れ込んでくる(NM交換)。

そして、Aさんは、Bさんに与えた以上の愛を
受け取ることになる。なぜなら、NM交換のエ
ネルギーのほうが、MM交換のそれよりも純度
が高いからじゃ。

つづく。 



2005.11.27
寿限無老師の愛論 第四回
愛を与えると人は輝く


<マザーテレサとシスターたち>
ややこしい話が続いたので、ここで一服入れ
ようかニャ。

吾輩が「愛交換のシステム」に気付いたのは、
気功修練を通じてじゃ。気功とは、天・地・
人(吾輩の場合は猫)の間でエネルギーを交
換するトレーニング。エネルギー(気)を出
せば出すほど、天地から気が自分に流入する
のじゃ。

しかし、もっとわかりやすい事例があるニャ。
マザーテレサの活動じゃ。

1928年 アイルランドのロレッタ修道会に入
    会。カトリックの修道女としてイン
    ドの修練院に送られる。
1946年 汽車の中で「神の召命」を受け、修
    道会を出て貧しい人々の中に入るこ
    とを決意。
1948年 インドで貧困救済の活動に入る。粗
    末なサリーを身にまとい貧民街に立っ
    たとき、所持金わずか5ルピー。
    「富の中から分かち合うのではなく、
    ないものを分かち合うのです」
1950年 12人のシスターとともに、貧しい中
    の最も貧しい人に仕える修道会「神
    の愛の宣教者会」設立。
1952年 路上で死にそうになっている人を連
    れてきて、最期をみとるための施設
    「死を待つ人々の家」(Home for Sick
    and Dying Destitutes)開設。「恵ま
    れない人々にとって必要なのは多く
    の場合、金や物ではない。世の中で
    誰かに必要とされているという意識
    なのです。見捨てられて死を待つだ
    けの人々に対し、自分のことを気に
    かけてくれた人間もいたと実感させ
    ることこそが、愛を教えることなの
    です」

マザーテレサとシスターたちは、この活動を
「歯を食いしばって」やったと思うかニャ?

現実は逆じゃ。嬉々として、弾けんばかりの
笑顔で奉仕生活に従事していた。彼女たちの
写真が残っているが、キラキラと輝く表情は、
ほかの世界ではまず見られない美しさじゃ。

全身全霊をかけて人々に愛を注いだ結果、マ
ザーテレサとシスターたちは、自然界から大
量かつ高純度のエネルギーを受け取っていた
のじゃろうニャ。

つづく。



2005.11.28
寿限無老師の愛論 第五回
愛を奪うとどうなるか


<片思いの幸せ>
「愛する人は愛され、愛を奪う人は愛を奪わ
れる」という言葉がある。これはただの処世
訓ではニャい。厳然たる事実じゃ。

「でも、愛する人が愛されるなら、片思いは
起こらないんじゃないか」という疑問が浮か
ぶかニャ? それは、きみが愛交換を依然と
してMMに限って考えているからじゃ。

「愛する人は愛される」というのは、Aさん
がBさんを好きになったら、BさんもAさんを
好きになるという意味ではニャい。これは、
AさんがBさんを愛したら、Aさんは自然界か
ら純度の高い愛を受け取るという意味じゃ。

たとえ片思いでも、誰かを好きになったら幸
せな気分が味わえるじゃろう? それはこの
メカニズムが働いているからニャんじゃ。


<でも片思いは苦しい>
しかし、そのうちに、相手からも愛してほし
いと思うようになる。すると苦しみが生まれ
る。これが「愛を奪う人は愛を奪われる」と
いうことじゃ。

AさんがBさんから愛されたい、つまりBさん
の愛がほしいと思うと、今度は流れが逆にな
るんじゃ。Bさんの愛がほしいというのは、B
さんからエネルギーを奪いたいことを意味す
る。そうするためには、まずAさんは自分の
中に「陰圧」を作らなくてはならない。

ストローで液体を吸うとき、口の中を陰圧に
するじゃろう? あれと同じ要領で、Aさん
は「愛の陰圧」を作る。どうやって? ここ
でも自動的にNM交換が起きるのじゃよ。

AさんがBさんから愛を奪おうとすると、自然
界は自動的にAさんからエネルギーを取り上
げる。そこでAさんの中には「愛の陰圧」が
生まれる。その結果、AさんはBさんのエネル
ギーを奪うための吸引力を得るわけじゃ。

しかし思い出してほしい。NMで交換されるエ
ネルギーは、MMのそれよりも純度が高いため、
たとえAさんがBさんからいくばくかの愛を奪
えたとしても(実際にはほとんど奪えないと
思われるが、それは別の機会に話そう)、収
支は「赤字」となる。自然界から奪われるエ
ネルギーのほうが大きいからじゃ。この赤字
が「苦しみ」となって感じられるんじゃニャ。

つづく。



2005.11.29
寿限無老師の愛論 第六回
愛を与え合う


<では両思いとはどういう状態か>
AさんとBさんが両思いの場合はどうなるか。
AさんはBさんに愛を与え(MM)、同時にAさ
んは自然界から愛を与えられる(NM)。その
結果、Aさんの愛収支は黒字となる。

一方、BさんもAさんにMMで愛を与え、NMで愛
を受け取り、収支は黒字となる。どちらも自
然界から愛を供給されながら、お互いにMMで
愛を注ぎ合うのだから、まさにラブラブの状
態になるわけじゃ。水びたしならぬ「愛びた
し」。こういう恋愛は幸せじゃニャ。


<奪えばますます飢える>
一方、「人から愛されたい」とばかり考えて
いる人は、どんどん愛の赤字がかさんでいく。
「愛されたい」イコール「愛が欲しい」イコ
ール「愛を奪う行為」となり、自分の中の愛
は純度が下がっていくのじゃ。

ある心理カウンセラーによると、人間関係に
問題がある人に共通する特徴は、相手に関心
がないことだそうじゃ。自分が他人からどう
見られているかばかりが気になる。

自分に対する関心を他者に求めてばかりいる
と、それは相手のエネルギーを奪おうとする
行為になってしまう。その結果、自動的に自
然界へエネルギーが吸い取られてしまうので、
愛されたい人ほど愛が枯渇し、愛への渇望が
ますます強くなる。まさに悪循環じゃ。

いわゆる「自意識過剰」の人も、他者の愛を
奪うことばかり考えているので、トラブルが
絶えないはずじゃニャ。 


<NM交換が第一義>
以上からわかるように、AさんとBさんが愛し
合って幸せなのは、お互いから愛をもらうMM
交換ゆえではなく、実はNM交換によって大量
の高純度エネルギーが自然界から与えられる
ことにおもな原因があるのじゃ。

人は人から愛を得ようとするが、それは自分
の愛を減らしてしまう。逆に、人に愛を与え
れば、結果的に自分の愛は増える。これは愛
交換の本質が、MMではなくてNMにあるからな
んじゃニャ。

人は「愛されようとする」ことによってでは
なく、「愛すること」によって、はじめて愛
を得る。まず、自分が愛することニャんじゃ。

つづく。


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2005.11.30
寿限無老師の愛論 第七回
愛を奪うのが「批判」


<ツキを呼ぶ魔法の言葉>
五日市剛さんの講演録を小冊子にした「ツキ
を呼ぶ魔法の言葉」は、口コミでベストセラ
ーとなった。イスラエル旅行で出会ったおば
あさんから魔法の言葉を教えてもらい、そこ
から運が好転したという不思議な話じゃニャ。
http://www.givegive.co.jp/tsuki.html

ツキを呼ぶ言葉のほかに、ツキを失う言葉に
ついても、この小冊子の中でふれられている。

 「てめ〜」「死んじまえ」「バカヤロー」
 「クソッタレー」とかそういう汚い言葉を
 平気で使う人は、そういう人生を歩むので
 す。また、絶対に人の悪口を言ってはいけ
 ません。あなたが自分の部屋に一人でいる
 時でさえも、人の悪口を言ってはいけませ
 ん。それに、人を怒ってもツキは逃げて行っ
 てしまいます。(同書より要約して引用)


<批判は愛を奪う行為>
AさんがBさんを批判すれば、それはAさんが
Bさんからエネルギーを奪う流れを作ってし
まう。つまり、AさんはNM交換で自然界から
エネルギーを奪われるのじゃ。

 【仮説6】
 批判は愛を奪う行為である。

このとき、Bさんのエネルギー収支がどうな
るかは、Bさんの対応次第といえるニャ。

●選択1:BさんがAさんを批判し返す
 Bさんもまた自然界からNM交換でエネルギ
 ーを奪われる。Bさんの収支は赤字。
●選択2:BさんがAさんを無視する
 BさんはAさんに若干のエネルギーを奪われ
 る可能性はあるものの、それらはいずれ自
 然界からNM交換で補給されるので、収支は
 少し黒字になる。
●選択3:BさんがAさんに愛を与える
 BさんはAさんに与えた以上の愛を自然界か
 らNM交換で与えられるので、収支は黒字に
 なる。与えれば与えるほど黒字は大きい。

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の
頬をも向けなさい」という聖書の教えは、こ
こでいう「選択3」を実践しなさいというこ
とじゃろうニャ。

ところで、「批判」は面と向かってすること
だけをさすのではニャい。心の中で相手を批
判するだけでNM交換は起きるのじゃ。

つづく。



2005.12.1
寿限無老師の愛論 第八回
愛は思うだけで交換される


<たとえ一人で部屋の中でも>
MM交換のことは、ひとまずおこう。ここでは
NM交換について述べるぞよ。人は自然界の中
で絶えずエネルギー交換をしながら生きてい
る。したがって、愛の交換も四六時中行なわ
れているのじゃ。

Aさんが誰かに愛を与えようとすれば、即座
に自然界から高純度エネルギーが補給される。
逆に、Aさんが心の中で誰かを批判したなら、
同時に自然界から高純度エネルギーが抜き去
られるのじゃ。

 【仮説7】
 NM交換はいつでも、どこでも起きる。

一人で部屋の中で誰かの悪口を言っても、心
の中で批判しても、それらはすべて「愛を奪
うエネルギーの流れ」を作り出すので、自然
界に愛を持っていかれる。批判的な気持ちで
いるとき、なんとなく心が寒いのを感じニャ
いか? あれはエネルギーが奪われているか
らニャんじゃよ。


<自分を批判しても同じ>
批判の対象は他者だけではニャい。自分自身
を批判しても結果は同じじゃ。反省、自己嫌
悪など、いかなる形で自分を批判しても、自
然界は人間から愛を吸い取ってしまう。

思い切って単純な構図で語るなら、対象が何
であれ「愛を与える者(Love Giver)」
は自然界から高純度な愛を得る。対象が何で
あれ「愛を奪う者(Love Taker)」
は、自然界からエネルギーを奪われる。

したがって、自分のエネルギーを増やす方法
はひとつしかない。いかなる対象に対しても
Love Giver になる。これしかないのじゃ。

しかし、世の中には悪人がいる。犯罪者もい
る。彼らは批判されるべきではないか。それ
が「正義」ではないか。悪は断固として憎み、
批判すべきでないのか。

これについてイエス・キリストはこう教えた
ニャ。「敵を愛し、自分を迫害する者のため
に祈りなさい」(マタイによる福音書)と。
どうやらイエスは、「愛交換のシステム」に
気付いておられたようじゃニャ。

悪を裁くことの是非については、次回に。

つづく。




2005.12.2
寿限無老師の愛論 第九回
愛は「絶対善」正義は「相対善」


<善と悪>
善悪という概念は人間が勝手に作ったものな
ので、究極的には善も悪もニャい。存在する
ものはすべてが善だと言ってもいい。

しかしそれは「究極の」話。それよりも俗な
レベルで話すなら、こういうことが言える。

 【仮説8】
 善=give(愛を与える)
 悪=take(愛を奪う)

この仮説を認めるなら、他者から愛を奪う者
が「悪人」であり、愛を奪う行為が「悪」で
あると定義できるのじゃ。


<正義とは何か>
では、悪人を批判したり、憎んだりすること
はどうか。それは「善」なのか。はっきり言
おう。答えは「ノー」じゃ。愛論の第八回で
言った通り、

 対象が何であれ「愛を奪う者」は、自然界
 からエネルギーを奪われる

たとえ対象が悪人であったとしても、それを
批判したり、憎んだりすれば、自然界は愛を
きみから吸い取ってしまう。

「正義」とは社会制度的なものであり、いわ
ば便宜的、一時的、相対的な善であると言え
るのじゃ。偽りの善と言ってもよい。それと
対照的に表現するなら、愛は絶対善じゃ。

社会制度として悪人を放置することはできな
い。したがって、彼らを捕え、裁き、社会復
帰へ導くことは必要となる。しかし、それと
「悪人を憎む」こととは別ニャんじゃ。

凶悪な犯罪者をテレビのニュースで見たら、
きみは悪人を憎むじゃろう? しかし思い出
してごらん。「たとえ一人で部屋の中でも」
「対象が何であっても」、愛を奪う者は自然
界からエネルギーを奪われるんじゃ。

憎むことは愛を奪う行為なので、きみの心は
確実に愛の純度が下がる。これが、凶悪犯罪
報道に接したときの、あのイヤ〜な気分の原
因ニャんじゃ。

では、悪人や悪に対してどうすればよいのか?

つづく。



2005.12.3
寿限無老師の愛論 第十回
愛は自分のために注ぐ


<なぜ愛を奪うのか>
悪人はなぜ愛を奪おうとするのか。それは愛
が欠乏しているからじゃニャ。なぜなら、

 【仮説9】
 人間は愛というエネルギーなしでは生きて
 いけない

からじゃよ。しかしこれまで見てきたように、
他者から愛を奪えば奪う(MM)ほど、奪った
人の愛は逆に枯渇する。奪っても奪っても満
たされない、それは無限地獄ニャんじゃ。


<批判者も愛を奪われる>
犯罪者を憎む人もまた、自然界から愛を奪わ
れる(NM)。したがって憎しみが連鎖する社
会では、コミュニティ全体の愛がどんどん劣
化してしまうのじゃ。世界の紛争地帯を見れ
ば、それは明らかじゃろう?

ものすごく難しいことではあるけれども、き
みは犯罪者に対して愛を与える必要がある。
それは相手のためではなく、きみ自身のため
ニャんじゃ。相手を恨めば、憎めば、批判す
れば、その瞬間からきみも愛を奪われる。

逆に悪人へ愛を与えれば、少なくともきみは
救われる。自然界から高純度のエネルギーを
得られるからじゃ。「敵を愛し、自分を迫害
する者のために祈りなさい(聖書)」じゃよ。


<理不尽な生き方>
たとえば自分に危害を加える者や、自分の大
切な人を奪った犯罪者に愛を与えることは、
現実問題として可能なのか。そんな理不尽な
生き方ができるのか。

おそらく大多数の人にとって、それは不可能
なことじゃろう。人間がMM交換にしか関心を
向けていない段階では、悪を憎むことの恐ろ
しさに気付けないからじゃ。

だから、ふだんから少しずつ練習しておくと
よい。自分と関係ない人が巻き込まれた事件
や事故について、被害者はもとより加害者に
対しても愛を与えるのじゃ。

心の中で祈るだけでいい。「被害者に加害者
に関係者に社会にみんなに愛を贈ります」と。
くり返すが、それはきみ自身のエネルギー純
度を高めることになるのじゃよ。

つづく。




2005.12.4
寿限無老師の愛論 第十一回
愛せないか愛されないか


<究極の恋愛バトン>
ある恋愛バトンに、こういう質問があった。
「究極の選択!一生人を愛せなくなる or
人に愛されなくなる どっちを選ぶ?」と。

 「バトン」とは、あるテーマに添ったいく
 つかの質問のセットのこと。バトンが知り
 合いの誰かから回ってきたら、ブログ上な
 どで質問に答えて、ほかの人にも回す。

これまでこの愛論で述べてきた話の流れから
すると、「一生人を愛せなくなる」というの
は、一生自然界からエネルギーを得られなく
なることなので、これでは生きていけない。

しかし、「人に愛されなくなる(MM)」だけ
なら大丈夫じゃ。自分から一方的に愛すれば、
愛はいくらでも自然界が供給してくれるから
ニャ。つまりこのバトンは、「人に愛されな
くなる」ほうを選べばいいのじゃ。

ただこれでは、究極の選択にならんのでつま
らんニャ。選べないものをあえて選ぶから
「究極の」選択なんじゃろうし...。


<愛をどこから得るか>
愛は他者から得てはいけない。それは自然界
から得るべし。そのためには、他者へ愛を与
えるべし、与え続けるべし。これが吾輩の愛
論じゃ。

何かほしいものがあれば、それをまず人に与
えなさいという、「成功の黄金律」とも似て
いるニャ。

英語のことわざに「What goes around comes
around」というのがある。行ったものはいず
れ戻ってくるという意味で「良いことも悪い
ことも、他人にしたことはいつか自分に返っ
てくる」という法則を教えている。

日本語でも「情けは人のためならず」とか
「人を呪わば穴二つ」というが、いずれも、
愛交換のシステムと同じではニャいか。

さあ、次回はいよいよ最終回じゃぞよ。

つづく。




2005.12.5
寿限無老師の愛論 第十二回(最終回)
愛はストレートに


<屈折した表現>
「好きだから意地悪する」とか「愛するがゆ
えに傷つける」とかいうことがあるニャ。そ
れは、人格の未熟さゆえに起きる場合もある
し、恋愛の高等テクニックとして使われる場
合もあるじゃろう。

こういうとき、エネルギー収支はどうなると
思うかニャ? まずはこんなふうに考えれば
シンプルじゃろう。「好きだから意地悪」し
た場合、好いた分だけ自然界から愛が得られ、
意地悪した分だけ自然界へ愛が奪われる、と。
意地悪するのは、相手の愛を得ようとする、
つまりエネルギーを奪おうとする行為だから
ニャ。

ただ、実際は「好いた分だけ得られる」かど
うかあやしいニャ。こういう場合、往々にし
て「愛という名のエゴイズム」であって、単
なるLove Takerになるケースが多いと予測で
きるからじゃよ。

一般論として言えば、愛情表現はストレート
なほうが(効率が)いいということになるん
じゃないかニャ。


<少し損をして生きる>
みずから進んで金銭や物品を困っている人に
差し出すことを「喜捨」という。これはふつ
う、自己犠牲の行為と考えられがちじゃ。し
かし愛論の立場から見れば、喜捨は自分を豊
かにする行為そのものニャんじゃ。

喜んで差し出す、つまり愛を与える。すると
自然界からはより大きな愛が流入してくる。
コストのかからん効率的な投資ニャんじゃよ、
喜捨は。

まず自分が先に与えるという、一見少し損を
した生き方が、結果として、豊かで喜びに満
ちた人生を与えてくれるというわけじゃ。

もちろん、こういう「エネルギー論」をきみ
が信じられるかどうかにかかっているがニャ。

では、またどこかで会おう。ニャはは!

寿限無




<参考文献>
●迷ったときは運命を信じなさい
 すべての願望は自然に叶う
 著:ディーパック・チョプラ

 シンクロニシティを手がかりに、誰もが奇跡を
 起こすための基本レッスンです。その前提には
 「ほんとうの自分」とは何かを徹底的に追及す
 る瞑想が必要となる。

  人類はまだ進化の入り口に立ったばかりなの
  で、熟睡、夢、覚醒という意識の最初の三つ
  の状態しか体験していない人間がほとんどだ。
  (スリ・オーロビンドの言葉)

 ヴェーダンタ哲学によれば、意識には以下に示
 した七つの段階があるそうです。

 1.熟睡
 2.夢
 3.覚醒
 4.瞑想の静けさ
 5.完全な自己観察
 6.完全な世界直覚
 7.自他の合一

 「奇跡」を信じても信じなくても、自己観察と
 しての瞑想は、すべての人に喜びをもたらすと
 思います♪

●魂のインターネット
IT関連の書籍ではなく、宗教・哲学系の本です。
「世界」は自分の外にあるか内にあるか。これを
読むと常識的な世界観が崩壊するかもしれません。
「私とは誰か」「現実とは何か」を理解するうえ
で、大きなヒントを与えてくれます。


●万能の鍵
 1897年にアメリカで出版され、100年以上も読み
 継がれている古典。日本では1966年に谷口雅春
 の訳が出ているが、これはその新訳(2004年。
 吉田利子の訳)。
 
  思考は力であり、自分に似たものをつくるし、
  似たものどうじが引き合う。だから自分の考
  えを律するということは、人生を決めること
  にほかならない。

  → 現実とは心がつくり上げた結晶



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ねこ気功~恋するインナーマッスル~
黒坂洋介 (著)
https://amzn.to/3vWJZDw


投稿者 kurosaka : 2007年1月 6日