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ひたすらくり返す 一秒瞑想

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ひたすらくり返す 一秒瞑想
黒坂洋介 (著)
https://amzn.to/3HDLqtc


瞑想ブームである。「瞑想」や「マインドフルネス」で検索すると、関連書籍が大量に見つかる。IT企業などで公式採用されていることもあり、瞑想に関心を持ち、実際に取り組む人も少なくないだろう。

これほどまでに多くの書籍が出版され、ある種のブームと呼べる状態であるのは、裏を返せば、たくさんの人が瞑想に挫折しているからではないか? ひとつのやり方がうまくいかないから、次々と別の方法にチャレンジする。その受け皿として多種多様な瞑想本が出ているという側面はないだろうか。

もし私たちが瞑想に挫折するとすれば、その理由は何か。まっさきに考えられるのは、眠気だろう。ストレスの多い多忙な環境にある人ほど、いざ瞑想を始めようとすると猛烈な睡魔に襲われる。瞑想はたちまち「睡眠」になってしまうのだ。

もうひとつのハードルは、雑念ではないか。瞑想を始めて無になろうとするほど、頭の中にはさまざまな思考が湧き起こる。いつしか瞑想は「考え事」になってしまう。

本書は、瞑想の2大障壁と思われる「眠気」および「雑念」を楽々とクリアし、本格的瞑想状態へ移行する橋渡しとして「一秒瞑想」を提案するものである。いわば瞑想の「基本のキ」をスムーズに通過するためのテキストとお考えいただきたい。

本書後半では、本格瞑想の方法を紹介。著者自身の瞑想体験についても触れられている。




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一秒瞑想エッセイ
意識には二種類ある
凪とはなにか






意識には二種類ある

一般には「顕在意識と潜在意識」という分類がよく知られている。ほかにも「中心意識と周辺意識」という分け方がある。「上意識と下意識」と区分することもできる。

瞑想トレーニングを続けていると、それらとは別に「場意識と像意識」があることに気づく。場意識は映画のスクリーン、像意識はそこで展開する映像と例えることができる。しかしこれは2つの意味で不完全な比喩である。

ひとつは、映画の場合は平面(2次元)であるが、実際は立体(3次元)的な場であり像であるという点だ。さらに正確に表現するなら、ニオイや、音や、味や、触覚や、記憶や、推測や、思考なども含む複雑かつ多次元的な像である。

もうひとつの不完全さは、スクリーンと映像が別々のものから作られていることだ。スクリーンは布であり、映像は光である。しかし場意識と像意識は、どちらも意識から成る。別の比喩を使うなら、海面に浮かぶ流氷が近い。海水が場意識で、氷が像意識となる。

特別なトレーニングをしていない人の場合、通常は自分の場意識を認識することはまれだろう。なぜなら場意識は心身の背景的存在だからだ。映画でいえばスクリーンにあたるのが場意識であり、ふつうはそこに映る「像」のほうに関心が向かう。スクリーン自体は鑑賞の対象とならないわけだ。

場意識は心身の背景であるため、その中身が具体的に意識化されることはまずない。私たちが「自分が何を考えているかわかっている」と感じるとき、多くの場合、それはスクリーン上に現れた「像」としての意識について語っているはずだ。

自分の場意識の状態を正確に把握するには、相当な観察能力が必要となる。まず自分の場意識を対象化し、明確に自覚する。場意識を細かくとらえることができたら、その移ろいやすさ、影響の大きさに驚くことだろう。

一秒瞑想で体験する「凪」とは、この場意識に相当するものだ。






凪とはなにか

もともと瞑想は宗教行法である。仏教、ヨーガ、気功はもとより、イスラム教やキリスト教にも瞑想的な行法はいくつも認められる。

ここでは仏教用語である「ニルヴァーナ」について考察してみよう。ニルヴァーナはサンスクリット語だが、こ
れを音訳して漢字表記したのが涅槃(ねはん)である。

ニルヴァーナの意味を漢訳すると、滅、滅度、寂滅、寂静などになる。これは「苦を超越した心の平安」を意味する。そして涅槃は、さとり(証、悟、覚)と同義としても使われる。また、死そのものを意味する場合もある。

ところで、原語のニルヴァーナ(nirvana)は、nir(否定語)+va(吹く)+na(受動)であり、「無風」「吹かれないこと」を意味する。まさに凪(なぎ)そのものだ。

呼吸法の練習を重ねるうちに、この「無風」が大きなテーマとして浮上してくる。呼吸における無風状態は、息を止めているとき。ヨーガでいうクンバカである。

通常、息を止めるとき喉は閉じられる。しかし喉を開放したまま、空気の出し入れをしない方法もある。私はこれを「凪」と呼んでいる。

ここで言う凪が仏教のニルヴァーナそのものかどうかはともかく、呼吸法修行を通じてこの現象を発見した先人は数多くいたに違いない。もし彼らがこの「無風状態」を、滅とか寂静と表現したくなったのだとしたら、それには強く同意できる。

一秒瞑想の凪で感じる静寂では、自分と現実世界を分けている境界線が消えたような感覚となる。自他一の境地である。自分が世界であり、世界が自分であるということを実感する。

スポーツでいう「ゾーン」や「フロー」、あるいは「ランナーズハイ」などのトランス状態だ。どこまでも精神が解放されて、悩み、苦しみ、煩悩なども消える。この状態を、円寂、菩提、成仏、彼岸、如、極楽、浄土などと表現するのも理解できる。「悟り」もまた、この状態のことを描写したのかもしれない。

いずれにしても、喉を開けて呼吸を止める「凪」状態にとどまることができるようになったら、いろんな体験と出会う。それはまず身体の状態として感知されるし、やがて特異な意識状態として認識できるだろう。

いったん瞑想を始めたら、まずはこの状態にたどり着くことだ。あらゆる方法論は、凪へ至るための手段にすぎないことがわかるだろう。

投稿者 kurosaka : 2019年1月31日