マルハラのふしぎな世界
マルハラのふしぎな世界 1:俵万智の短歌
マルハラのふしぎな世界 2:忌み言葉
マルハラのふしぎな世界 3:句読点の歴史
マルハラのふしぎな世界 4:コノテーション
マルハラのふしぎな世界 5:リテラシーの相関
マルハラのふしぎな世界 6:イニシエーション
マルハラのふしぎな世界 7:橋をかけよう
【マルハラのふしぎな世界 1:俵万智の短歌】
2024年2月27日
俵万智が詠んだ"マルハラ"についての短歌が話題だ。
マルハラとは「マルハラスメント」の略。LINEで中高年から受け取ったメッセージが句点で終わっていると、若者は冷たさを感じるというもの。
優しさにひとつ気がつく
×でなく○で必ず終わる日本語
(俵万智)
さすが日本語の達人◎
【マルハラのふしぎな世界 2:忌み言葉】
2024年3月3日
LINEの若者だけでなく、結婚するカップルにも句読点は嫌われるようです。
披露宴招待状へ返信メッセージを書くとします。そこに句読点( 。や 、)を入れると、「切れる」を連想させるため、お祝いには不適切なんだとか。句読点が忌み言葉として扱われるのですね。
また、句読点を付けた文章は読みやすくなるため、「こうすればあなたにも読めますよね」と相手を見下すことになる、そんな理由で避けるべきという意見もあるからびっくり。わかりにくい文章のほうが敬意があるのか???
降り続く雨は言うだろう
なんて人間はもろいんだ...
(スティング FRAGILE)
Image from 結婚式準備.com
※句読点をつけない例文として載っていたけど、うっかり最後の文にはマルをつけちゃったようです。
【マルハラのふしぎな世界 3:句読点の歴史】
2024年3月4日
マルハラ現象の背景には、句読点の歴史が関係している気がします。
読点(テン)が使われたもっとも古い記録は奈良時代にあると言われます。ただ、現在の句読点(テンとマル)がきちんとした形で使われるようになるのは、明治時代に学制が敷かれてからだとか。
つまりそれまで日本語における句読点は「なんとなく」使われていただけ。古文ではほとんど出てきませんしね。
明治39年(1906年)に、文部省が国定教科書の基準として「句読法案」を作成。これが句読点の使い方を初めて公に示したものだそうです。
新聞紙面でも、通常のニュース面では読点(テン)は使われていましたが、句点(マル)が使われることはまれだったようです。
文章の終わりのマルがすべての記事に付くようになったのは、朝日新聞の場合1950年7月2日付の朝刊紙面から。なんと戦後になるまで、句点は付いたり付かなかったりしたんですね。
だからLINEやお祝いメッセージで句読点が避けられてもそれほど奇異ではなく、日本語の歴史から見るとむしろ自然なことなのかもしれません。
【マルハラのふしぎな世界 4:コノテーション】
2024年3月6日
どうしてマルハラが生じるかについて、デノテーションとコノテーションで説明できるかもしれません。
たとえば「鳩」をハト科に属する鳥の意味で使うならそれはデノテーション(辞書的なオモテの意味)です。平和のシンボルという意味で使う場合はコノテーション(個人的・状況的なウラの意味)となります。
中高年がLINEで文末に句点(マル)を打つのは、そこが文の終わりであること、つまりデノテーションとして使っているわけです。しかし世代によって、そこに「冷たい」「怖い」というコノテーションを読み取るのでしょう。
お祝いのメッセージにデノテーションとして句読点を打っても、それは「切れる」あるいは「蔑視している」などのコノテーションでとらえられる場合がある。いわゆる「忌み言葉」という社会的な約束事です。
コノテーションは詩や小説で重視されます。言葉を使って具体的な対象を示すだけでなく、比喩的にさまざまな事象を表現できるからです。
このように考えるなら、マルハラは単に句点を打つか打たないかという単純な話でなくなります。情報の発信者と受信者におけるリテラシー(読み書き能力)が問題となるからです。
次回はそのお話を。
【マルハラのふしぎな世界 5:リテラシーの相関】
2024年3月8日
リテラシーはもともと「読み書き能力」のこと。昨今は特定分野の知識活用力を示す言葉として、ITリテラシー、メディアリテラシー、情報リテラシー、ヘルスリテラシー、金融リテラシー、文化リテラシー、環境リテラシーなど、さまざまな使われ方をします。
ここでは情報の発信・受信能力を「リテラシー」と呼びましょう。発信者と受信者のリテラシーによって、コミュニケーションの精度は表のように変化すると思われます。
双方が高いリテラシーを有している場合は良好なコミュニケーション(◯)、両方とも低ければ意思疎通が難しくなります(X)。どちらかが高くて他方が低い場合は、大小様々なすれ違いが生じることでしょう(△)。
さらにデノテーション(明示的な意味)とコノテーション(暗示的な意味)のそれぞれにリテラシーを考えることができます。
前者をDL(デノテーション・リテラシー)、後者をCL(コノテーション・リテラシー)とするなら、少なくとも以下4タイプの情報能力が想定できます。
タイプ1:高DL高CL→コミュ達(コミュニケーションの達人)
タイプ2:高DL低CL→杓子定規(一定の基準ですべてを律しようとする)
タイプ3:低DL高CL→内輪ウケ(特定集団の内部でだけ通じる)
タイプ4:低DL低CL→支離滅裂(意思疎通の停止)
LINEのマルハラに当てはめてみると、たとえば発信者がタイプ2(高DL低CL)で、受信者がタイプ3(低DL高CL)の場合、受信者は句点(マル)のついたチャットに恐怖を感じることが予想されます。
けれども発信者も受信者もタイプ1(高DL・高CL)であれば、そのような行き違いは生じることなく、状況に応じて句点を付けたり付けなかったり、自由なコミュニケーションを楽しめるでしょう。
「忌み言葉」については、また次回に。
【マルハラのふしぎな世界 6:イニシエーション】
2024年3月10日
符丁(ふちょう)とは、商品の値段や等級を示す隠語のこと。仲間うちだけに通用する業界用語もさします。音楽家が数字をC、D、Eと音名で表現したり、鰻屋で4,070円を「ツキマルカマル」などと暗号のように表現するのが好例です。
また、寄席芸人が扇子をカゼ、手拭いをマンダラと言ったり、警察が犯人をホシ、事件をヤマと呼び、料理屋で馬肉をサクラ、猪肉をボタンと呼ぶのも広義の符丁と言えるでしょう。
慶賀メッセージで「別れる」「切れる」などの忌み言葉を使わないのも、ひとつの社会体系の中での約束事であり、符丁の延長にある習慣かもしれません。
また、目上の人への手紙には句読点をつけないのがマナーとする考え方もあります。わかりやすく書くのは相手を下に見る行為だからというのが理由です。
これらの風習は、そこに合理性があるかよりも、このルールに従うかどうかで仲間とよそ者を区別する「合言葉的な」役割を果たしているようです。
特定の意味を記号に変換し(エンコード)、その記号を意味に復元(デコード)できる者は味方であり、できなければ敵である。この場合、記号の変換手続きが複雑であるほど、仲間内の結束は強くなるわけです。カルトの戒律や校則がしばしば謎ルールに満ちているのはそのせいかもしれません。
したがって、LINEに打つ句点(マル)を冷たいと感じるかどうかは、ハラスメントの問題というより「イニシエーションを経ているかどうか」に近い気がします。
イニシエーションは、グループや社会への参入を示す通過儀礼のこと。コミュニティの一員として正式に認められるための儀式です。
句読点ばかり打ちまくる私は、チャット交換コミュニティのイニシエーションが済んでないのでしょうかね。
つづく(ここにマルは打ちません - 笑)
Image from Sherlock Holmes Topia(シャーロック・ホームズ・トピア)
※興味深いのは、旗が語末を表していること。つまりこの暗号にもマル(というかピリオドですね)が存在しているのです。
【マルハラのふしぎな世界 7:橋をかけよう】
マルハラが話題となるとき、マルを「打つ派」と「打たない派」の対立図式でとらえられることが多いようです。
ここで何が対立しているかというと、コノテーション(暗示的意味)です。LINEにおける句点(マル)を、中高年と若者がそれぞれ独自の意味で認識しているわけです。
しかし私たちは世代間の分断を深めるのではなく、両者を橋渡しするべく建設的に知恵を使いたいと思います。
属性の異なる人が意思疎通できるデノテーション(明示的意味)を共有する。そのためには中高年も若者も基礎的な日本語のリテラシーを大切にする必要があるでしょう。
この活動を、世界共通語を創案したザメンホフに敬意を表し「エスペランティング」と呼んだりして(笑)
ところで本シリーズ冒頭にご紹介した俵万智の短歌は、エスペランティングにひとつの方向を示してくれると思います。
優しさにひとつ気がつく
×でなく○で必ず終わる日本語
(俵万智)
日本語の歴史を振り返れば、それは「○で必ず終わる」わけではなかった。しかしマルを「冷たさ」ではなく「優しさ」として位置づけ直すことは、今すぐにできそうです。
日々の言語活動を通じてマルに優しさを込める。句読点の使い方をくふうすることで、ハラスメントをエンタテイメントに変えられるのではないでしょうか。
それでは本稿を二重丸で締めくくることにします◎
(了)
投稿者 kurosaka : 2024年3月 8日